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天罰は存在するか?

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クライアントのAさんにセッションしていると、「神様から罰を受ける」ことを信じていることが分かりました。
いわゆる天罰ですね。

全文、Aさんの許可を得て掲載しています

聞いていくと、ある模範的なこと(たとえば、「人にきつく当たってはいけない」など)をやらないと、天罰を受けて、自分がやったことと同じことが人生に起きると思っていました。

いわゆる「因果応報」ですね。

こういう思いを持っている人は他にもいると思い、ブログで取り上げさせていただきました。

天罰(神様からの罰)を信じているということは、神様からのご褒美も信じています。

ある模範的なことをやると、自分もいいことが起きると思っています。

因果応報はマイナスにもプラスにも働きます。

因果応報を信じている人は多いんじゃないかなと思います。

結論から先に言うと、因果応報、天罰、神様のご褒美など存在しません。

それを今日の記事では書いていきます。

天罰、神様のご褒美、因果応報を信じることが自分を苦しめる

なぜ、それを書くかというと天罰(神様のご褒美)というのは、自分自身をものすごく制約することになるからです。

法律違反は罰を科せられます。
罰という抑止力が働くので法律を順守します。

ですが、赤信号くらいのルールであれば、車が通ってなかったら渡る人も多いでしょう。
それで罪の意識を感じることはほとんどないはずです。

しかし、「神」との約束であれば、ルール違反はかなりやりにくくなります。
神様というのは絶対的な存在と思っているはずです。
絶対的な存在との約束は守らざるを得ません。

すると、神様との約束に反してしまうと自己批判はすごいはずです。

神様との約束(ルール)が多く、強いほど、自分を制限します。
そして、ルール違反したときは自分を責めて苦しみます。

神様が決めたルールを緩めることはものすごく難しいので、なかなかビリーフが手放せません。

絶対的な存在との約束なので、少々セラピーをしたところでビリーフは緩みません。

なので、ここの思い込みをまず緩める必要があります。

天罰、神様のご褒美の基準は何?

さて、天罰、神様からご褒美をもらうことの基準ですが、それは誰が決めているんでしょうか?

よく見ていくと、それは本人のルールです。

本人が「神様がこういう基準で賞罰するに違いない」と決めたルールです。

それは本人が選択した本人のルールに他なりません。

そのルールは本人の人生の中で社会や誰かから学んだものです。

「相手を攻撃してはいけない」とか「不快なことを他人にしてはいけない」とか、いわゆる道徳的なルールで一見間違ってないように見えるものなどです。

絶対的な基準は存在するのか?

しかし、どんなルールもいいとこずくめではありません。必ずデメリットもあります。
それはコインの表裏です。

「相手を攻撃してはいけない」と思っていると、相手を責めることができず、いつも自分を責めることになります。
不当なことをされたら相手を攻撃することも必要です。
そうしないと、いつまでも不当なことをされつづけることになります。

また、相手を責める気持ちを抑圧することになるので、自分の身体の中に怒りなどの感情がどんどん蓄積されます。

本当はそれを出したいのに、神様との約束なのでそうできないわけです。

神様のルールとはどのようなものか?

まず、神様という存在ですが、あいまいですよね。
とりあえずここでは「絶対的な存在、万物の創造主」と定義します。

神様がルールを決めるとしたら、どんなルールにするでしょうか?

絶対的なルールであるはずです。

立場や状況が変われば、メリットデメリットが変わるようなルールは絶対的なルールと言えるでしょうか?

では、神様が作るルールはどんなルールがありますか?

よく考えてみてください。

真剣に考えると、どんなルールも絶対的なものはないことに気づくはずです。

どんなルールも穴があります。

穴があるようなものが神様のルールでしょうか?

ということは、Aさんが信じていた「神様のルール」というのは、本当の神様のルールというものではなく、単なる一般的なビリーフに過ぎません。

それを「神様のルール」と誤解しているわけです。

では、神様のルールとはいったいどのようなものでしょうか?

これもよく考えてもらいたいです。

真剣に考えると、「神様のルールなんて分からない」ということが分かるはずです。

どこまで考えても分からないはずです。

しょせん、人間の頭が考えられるレベルなんて知れています。
人間が認識、知覚できるレベルは、ほんのわずかです。

この宇宙という奇跡を作り上げた神様のルールを、たかが人間レベルの頭で分かるようなものでしょうか?

不可能です。

神様は本当に罰やご褒美を与えるのか?

では、どのような基準で、神様はご褒美を上げたり、罰を与えるのでしょうか?

ルールが分からない以上、そんなことは分かるはずもありません。
分からないことに対して対処しようとしても仕方ありません。

そして、本当に神様はご褒美を上げたり、罰を与えたりするのでしょうか?

ご褒美とか罰というレベル自体、人間の創造物です。

神様という絶対者がそんなレベルでものを考えるでしょうか?

少なくとも私たちが決めたルールや価値観、道徳と同じレベルで善悪を判断しているというのは考えられません。

法律などの社会のルールはどういうものか?

法律は何のために存在するのでしょうか?
道徳的ルールは何のために存在するのでしょうか?

社会を円滑に運営するためです。

そして、社会は移り変わります。

室町時代には室町時代のルール(法律)があり、江戸時代には江戸時代のルールがあり、現代には現代のルールがあります。

現代でも70年前の戦前では大きくルールが違っていました。

日本だけではなく、海外でもルールが違います。
時代や地域によってルールは異なります。

風習、価値観が違うため、ルールが変わるのは当然です。

そういったルールはあくまで社会や権力者の都合に過ぎません。
それは神様のルールでも何でもないのです。

世の中の神様といわれる存在の言葉はどうなのか?

では、世の中のいわゆる神様と言われる存在が発している言葉はどういうことか?
それは神様のルールではないのか?
と疑問を持つ方もいらっしゃると思います。

日本の神様ってたくさんいますね。

七福神もそうですね。
Wikipediaで調べるとたくさんいます。

海外の神様も同様にたくさんいますね。
宗教が違うと、神様も違います。

スピリチュアルでいうと、高次の存在も神様みたいなものかもしれません。
ハイアーセルフ、エンジェル、宇宙人などです。

このあたりを書くと批判されるのが恐いのであまり書きたくないのですが、あくまで私の見解として受け取ってください。

これってすべて人間が想像できる範囲のレベルの産物です。
知的レベル、意識レベルは違えど、彼らが言っていることが理解できるレベルのものです。

神様という絶対的な存在が、人間が考えられるようなレベルのものでしょうか?
この宇宙という奇跡を生み出して、成り立たせている存在が、人間の姿をしているなんてそもそもおかしな話だと思います。

絶対的な存在という神様ではなく、人間の創造物としての神様に過ぎません。

なので、神様の定義が違います。

私が今言及している神様は絶対的な存在、万物の創造主と定義しました。
そういう意味では宗教の神様、スピリチュアルの神様はそこに該当しません。

確かに高次の知恵、英知ではありますが、人間の延長線レベルです。

絶対的な存在というのはそもそも人間レベルでは測られないものです。

非二元の観点から

非二元の観点から言えば、全存在は神様以外の何物でもありません

私たちの思考は自分で作っていると信じています。

さて、それは本当でしょうか?

私たちが作り出しているのなら、自分で思考をコントロールできるはずです。

思考をよく観察すると、それは勝手に湧いてきているとしか言えないことが分かるでしょう。

思考活動自体が神様の活動と言えます。

この世には神様以外あり得ません。

万物すべてが創造主です。

創造主の呼び方は様々あります。
「マトリックス」と呼んだり、「エネルギーフィールド」「純粋な意識」「気づきの意識」「空」などと呼ばれますが、同じ概念です。

もし、万物すべての存在が創造主で、すべての活動が創造主の活動だとしたら(もちろん同意しなくてもいいですよ)、私の思考(だと思っているもの)を批判、否定することは、神様が神様自体を否定することになりませんか?

そんなことを神様がするでしょうか?

すべての起こることは神様の衝動に過ぎません。

全肯定でしかありえないのです。

そういう意味で、私たちは既に完璧な存在です。

マインド(私)が完璧というのではありませんのでご注意を!

何かを変える必要も、付け加える必要も、差し引く必要も何もありません。

起こっていることは神様の衝動(活動)なのですから。

だとしたら自己否定、他者否定はどうして起こるのでしょうか???

ちょっと考えてみてくださいね。

人生はシンプル

さて、Aさんはセッションの中で私がいろいろ問いかけて、以上を腑に落としてくれました。

するとAさんは、「人生はシンプルだ」ということに気づきました。

そうなんです。
人生はとてもシンプル!

ただの神様の営みに過ぎません。
これが「起こることが起きている」ということです。

神様の営みの意味を、制限あるマインド(自我)で考えても仕方ありません。計り知れないものです。
それをあえて答えを出したとしても、せいぜいマインドを納得させることに役立つに過ぎません。

すべてが神様の営みだとしたらどうして苦しみが起こるのか?

「起きることが起きているだけなら、どうして苦しみが起きるの?」

そう感じる方もおられるでしょう。

そもそも神様の活動を「自分が」起こしていると思い込んでいる時点で、絶対的に苦しみが発生します。

この誤解があると当たり前に苦しみが生じませんか?

マインドの都合と神様の都合は違うので、ギャップが苦しみとなります。

ギャップを埋めようとしたところで、しょせん自分のマインドが考えるレベルで神様の活動は予測もコントロールもできません。

マインドが苦しみを生み出す

マインド自体も神様ではないのか?
という疑問もあるでしょう。

はい、それも神様ですが、私たちはマインド自体を自分だと絶対的に信じているので、「『私』という錯覚」の理解以前にそう捉えてしまうと、私(マインド)=神と捉えてしまいます。
すると、間違った解釈になってしまいます。

なので「『私』という錯覚」の理解以前では、マインドと神を区別して考えたほうがよいでしょう。

「マインドも神の一部であること」を理解するのは「『私』という錯覚」を理解した後のステップ(非二元の理解)です。

ここでは、

「マインド≠神(マインドは神ではない)」

と考えてみてください。

私たちの生命の活動は、神の活動です。

神の活動をそのまま起こるに任せているのが、「ハートに従う」ということです。

そこを邪魔するのが、マインドです。

いわゆる「私」と思っているものはマインドです。
マインドをコントロールしている存在は存在していません。
コントロールしている存在がいると思い込んでいるにすぎません。
それもマインドが生み出した幻想(誤解)です。

私たちの人生は本当にシンプルなのですが、マインドが複雑にしています。
マインドが苦しみを生み出しています。

マインドを改良するのが癒し

マインドというのは自我の活動(心)です。

自我の活動は対処できます。

それが「癒し」です。

カウンセリング・セラピーで目指しているのは、癒しですが、マインド自体にメスを入れることで生きるのを楽にしてくれます。

そして、自我が緩めば、神の活動が妨げられなくなります。

神の活動自体にマインドが自己否定することもなくなります。

マインドがない状態を目指すのではない

誤解がないように付け加えておくと、自我が緩むというのは、自我がゼロに近づくという意味ではありません。

また、自我がなくなることを目指すものでもありません。

思いや感情や感覚が起こるがままにしておくことと、思いや感情や感覚が起きないこととは全く違います。

自我をなくすことを目指すと、後者の境地を目指すことになります。

それはどういうことかというと、気づきの意識が私たちの知覚フィルターを全く通さない世界なので「無」です。

深い睡眠のようなもので「無」としかいいようがありません。

生きているかぎり、私たちの知覚フィルターはそのままあります。

それをなくそうとしていること自体がナンセンスな追求だと思います。

癒しで目指しているのは知覚フィルターの改良といえます。

非二元の理解で得られるのはマインドが主人公ではないと知り、神様に全託する(サレンダー)ことと言えるでしょう。

悟り(非二元)で奇跡を起こそうとすること自体が的外れ

非二元の理解を得たら、願いがかなうとか奇跡が起きるとかそういうことを信じている人もいますが、それはまったく的外れです。

願いや奇跡(病気が治るとか)は、あくまでマインド(自我)の都合です。

マインドの都合通りにコトが運ぶように神様の活動を変えることを目指そうとすること自体がまったくの的外れであることをよく吟味してみてください。

すべての衝動、思考、感情をそのまま認めること(=等身大の自分であること)

ここまで読んで、神様の活動を全託するという理解を得られたならば、自我にとって嫌なことであったとしても、すべてそのまま認めてください。

他人を攻撃したい衝動が起こったとしても、その衝動が起こったことを否定せずにその衝動自体を認めてください。

実際に他人を攻撃しろと言っているわけではないですよ。

思いや感情を認めてくださいと言うことです。

実際に攻撃したら、相手も攻撃し返すとか、相手が不快になって関係が悪くなるとか、いろんなデメリットも発生します。
その責任を自分で取ったうえで、行動を選択するだけの話です。
攻撃しないという選択をするのも自由です。
自分の行動の結果、別の状況が作られます。それをただ享受するだけのことです。

自分に湧いてくる思いや感情、衝動などを認めることが等身大の自分であるということです。

もちろん、それが不快なものや人生を制限するもの、苦しみを生むものであれば、対処したほうがいいですよね(=癒し=マインド、自我、知覚フィルターの改良)。

対処したかったら対処します。

すごくシンプルです。

ラッキーなことに対処する方法はあります。

これがセルフワーク講座やセッションでやっていることです

今日、ここに書いたことがどこまで腑に落ちたか、あるいは反発を感じたか、ナンセンスだと思ったか、それもまた自由です。

それ自体を大切にしてください。

単なる、現時点での私の見解に過ぎません。

天罰、神様のご褒美、因果応報などを信じていて苦しみを作っている方が楽になるきっかけになればと思い、今日の記事を書きました。

楽になるきっかけとなれば幸いです。

ABOUT ME
西川佳宏(よっし~)
西川佳宏(よっし~)
境界線専門カウンセラー。境界線(バウンダリー)専門・心理カウンセリング「セルフコンパス」代表。 会計事務所・外資系証券会社・医療設備メーカーでの10年超の会社員経験を経て、2012年6月にセルフコンパス設立。英国HOLISTIC HEALING COLLEGE Integrated Counselling Diploma取得。心理カウンセラーとして境界線を適切に引くためのサポートを提供。 特に効果が高いのが人間関係の悩み、自己肯定感が低い悩み、過剰責任感・完璧主義の悩み、罪悪感の悩み、HSPの悩み、不安・恐怖の悩み、うつ・不安障害の悩み。 柔らかな雰囲気に加え、こころの悩みの本質をやさしく説明するのが得意。プロフィールの詳細はこちら

POSTED COMMENT

  1. より:

    最近苦しい経験があり、その中でもがく中でびっくりする考えが浮かんだのですが、それが先生の書かれている内容に近いように思い、驚いて居ます。
    この世界は、絶対的な存在によって全てプログラミングされているのではないかと。人生の中で起こるすべての経験、出逢い、その中で起こる感情や感覚なども、すべてもうあらかじめ決まっているのではないかとの考えが突然湧き上がって来ました。私たちの魂(魂があると仮定)は、航路が決まっている船に乗っているにすぎないと。

  2. より:

    付け加えです。
    なので、もう航路は決まっているのだから、今や未来に必要以上に不安を抱かず、今を精一杯楽しんで生きれば良いのかなと。そんなことを今考えています。

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