HRA主催セミナーが無事終了しました
HRA(ハートレジリエンス協会)主催セミナー「ビリーフが遺伝子をコントロールする?~波動から見る心と体の癒し~」が先日行われました。
90名くらいの方にお越しいただきました。
心からお礼申し上げます。
ありがとうございました。
溝口あゆかさんとW講師で、前半を私が担当いたしました。
カウンセリングや心の仕組みを学んだ師匠と同じ土俵でお話しさせていただけるなんて本当に光栄でした。
ただ、それゆえ相当なプレッシャーがありました。
ハートレジリエンス協会という看板、あゆかさんとのW講師、大人数というのはプレッシャーです。
プレッシャーがあるとそれだけ自分自身が伸びていくのが分かります。
セミナーの準備を通してあらためて理解できたこと、成長したことが多々ありました。
とはいえ、しばらくはこのプレッシャーは味わいたくないかなと思います(笑)
とにかく無事に終わってホッとしています。
セミナーでお話ししたビリーフのお話や、癒しの大切なポイントについてはまた追々ブログやメルマガでお伝えしたいと思っています。
セミナーで少し、癒しの先のイメージについて触れましたが、今回の記事ではそこを詳しくお伝えします。
行為や行動でその人の癒しを測ることはできない
ボクが自分を癒して分かったことはたくさんありますが、その中でも大事な学びの一つが、行為や行動で癒しを計ることはできないと知ったことです。
かつてはこんな癒しのイメージを持っていました
自分を癒す前は、癒したあとのイメージがありました。
自己愛、セルフラブ、自己肯定感、自己尊重――すべて同じ意味ですが――、それが高まると、素晴らしい自分になれるようなイメージがありました。
たくさんの自分の能力が開花して、十分活躍できて、他者からも評価され、愛され、とても輝いて、バラ色の人生を送っている、そんなイメージが漠然とありました。
行為や行動も変わっているに違いない、もっと素晴らしい行いをしているに違いない、そう思っていました。
今思うと、とんでもない誤解をしていたなと思います。
癒しは自分を制限していた価値観を緩めること
たとえば、マザーテレサのような無償の奉仕を良しとする価値観を持っていたとすれば、そういう自分を理想とします。
価値観、理想は人によって違います。
癒しの先に、自らの理想像や価値観の善をイメージします。
癒しというのはむしろ自分の理想や価値観をぶっ壊すことです。
自分の価値観の悪を私たちは否定・抑圧し、それを他者に投影します。
しかし、それは自分が持っていた一部を何らかの理由――多くは心の傷――で抑圧していただけということに気づきます。
その気づきと共に、自分が元々持っていたもの、資質など――エネルギーといってもいい――を受容します。
別の言い方をすれば、自らのエネルギーの一部を拒絶することでエネルギーの自然な流れが妨げられます。
自分を癒すことでエネルギーの自然な流れを正常にします。それは、拒絶しているエネルギーを受容することに他なりません。
自分を癒すと自分の枠がなくなっていく
つまり、自分を癒していけばいくほど、自分の枠がなくなっていきます。
理想や価値観が落ちていきます。
「こうあるべき」というのが少なくなっていきます。
価値判断に自信が持てなくなります。
優劣がどうでもよくなってきます。
何が正しくて、何が良くて、何が間違っていて、何が悪いかが一概に言えなくなります。
ちなみに一切なくなるわけではありません。価値観やビリーフは必ず存在します。価値観の枠組みが緩んでいくというふうに捉えてください。
自分を制限していたビリーフが緩んだときに出てくるもの
そうなったときに出てくるものは何でしょうか?
ただの等身大の自分です。
ありのままを受け入れているので、エネルギーが流れるままに生を送っています。
ただ、委ねています。
根拠ない、生への信頼があります。
この状態の自分はもしかしたら世間的にはまずい人かもしれません。
あまり尊敬されない人かもしれません。
ダメなやつだとレッテルを貼られるかもしれません。
それは分かりません。
でも、それがあるがままであれば、ただそういう生き方をします。
ジャッジしませんし、されても気にしません。
自然体の状態は、人によって様々です。
同じ状態というのはありえません。
また、同じ人でも時間が違えば、変わります。
私たちは変化するエネルギー体だからです。
そういう意味で、こういう状態だからいい、こういう状態だから悪いというのは判断できません。
大事なのは行為・行動ではなくあり方
多くの人が賞賛する行為、たとえば無償の奉仕をしていたとしても、本人が何らかの名誉や賞賛のためにやっていたとしたらそれは恐怖ベースの行為なので、苦しみにつながります。
また、本人のハートベースでやった行為が、人を傷つけたり、不快に感じたりすることもあります。
言動ではありません。
何をしているか、何を言っているか、何を主張しているか、何を書いているか、どんな素晴らしい行為をしているか、罪を犯しているかではありません。
誰に評価されているとか、世間の評判の大きさや賞や成し遂げた行為ではありません。
いつもポジティブなことを言っている。
困難に挑戦している。
好きなことをやっている。
ワクワクすることをやっている。
自分の能力を発揮している。
成功している。
「こういうことをしているから、本人はさぞかし癒されているに違いない」
そう思いがちです。
そうかもしれないし、そうでないかもしれません。
大事なのはあり方
言動では測れません。
大事なのはあり方です。
人によっては自然体のあり方が、世間的に賞賛されたり、大きな価値創造を生み出せるかもしれません。
それは素敵なことです。
人によっては自然体のあり方が、世間的には非難され、ほとんど価値創造を生み出せないかもしれません。
同様にそれも素敵なことです。
癒していくと、だんだんジャッジがなくなります。
だからより自然体でいられます。
それは何らかの特別な自分ではありません。
ただのそのままの自分です。
そのあり方が重要で、行為ではないんです。
ではわざと人を傷つけるのはどうなの?
では、何かを盗んだり、わざと人を傷つけたり、いじわるをしたり、そんな行為をしていても癒されている場合もあるのかと言えば、そうではないでしょう。
そうせざるを得ない場合は、心に傷があるからです。
だから、故意に人を傷つけるようなことができるのです。
行為を基準にするとハートの妨げになる
心の傷を癒せば、基本的には温かいものがベースになるでしょう。
ですが、行為を基準にしてしまうと、「その行為をしている=善」、と捉えてしまうので、ハートの行動の妨げになってしまいます。
行為は結果に過ぎません。
善悪のレッテルを無意識で貼る
もし、今回のブログの文章にしっくりきた場合、おそらく、「自然体」「ジャッジしない」「理想や価値観が少なくなる状態」を善とし、その反対を悪とするでしょう。
そうやって善悪のレッテルを自動的に貼ってしまいます。
頭で癒そうとすると、こういう罠に陥ります。
どっちでもいい、どうしたいか
自然体であろうが、不自然であろうが、ジャッジしなかろうがジャッジしようが、理想や価値観がたくさんあろうがなかろうが、どっちでもいいんです。
その上でどう選択したいかだけです。
ワークが重要
それを頭ではなく、ハートで理解するために、ワークが必要です。
もちろん頭の理解も重要です。
それがあるのとないのではものすごく違います。
だから、ブログや本やセミナーで学ぶことはとても重要です。
同時に、ワークも同等以上に重要です。
それをサポートしているのがカウンセリングやセルフワーク講座です。
特にセルフワーク講座は知識もワークもすべてをセットにしてレクチャーしているのでお得だと思います。