甘えについて引用
前回のブログに引き続き、甘えをテーマに書いていきます。
甘えについて2つの本から引用します。
甘えの構造
まず最初の本は50年前のベストセラー。土居健郎著「甘え」の構造より。
この本は面白い気づきを与えてくれる箇所がいくつもありますが、一部のみ切り取ります。
P117-118「すなわち、甘えとは、乳児の精神がある程度発達して、母親が自分とは別の存在であることを知覚した後に、その母親を求めることを指していう言葉である。いいかえれば甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎児の延長で、母子未分化の状態にあると考えなければならない。しかし精神の発達とともに次第に自分と母親が別々の存在であることを知覚し、しかもその別の存在である母親が自分に欠くべからざるものであることを感じて母親に密着することを求めることが甘えであるということができるのである。
・・・中略・・・
さて先に、甘えの原型は乳児がおぼろげに自分と別の存在であると知覚する母親と密着することを求めることであるとのべたが、であるとすると、甘えるということは結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるといえないだろうか。母子は生後は明らかに物理的にも心理的にも別の存在である。しかしそれにも拘らず甘えの心理は母子一体感を育成することに働く。この意味で甘えの心理は、人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることであると定義することができるのである。・・・以下略・・・」
もう一箇所切り取ります。
P124「・・・略・・・。というのは甘えは度々のべてきたように相手との一体感を求めることだからである。もっともその場合、相手がこちらの意図を理解し、それを受け入れてくれることが絶対必要である。しかしこのことはいつも可能というわけにはいかないから、甘えを求める者はいきおいフラストレーションを経験することが多く、もし満足を感ずる場合にも長続きしないのが通常である。このことから真の永続的一体感を求めて、ある人々は禅その他の宗教に走ると考えられるが、同じ動機が美の追究に赴かせることもあるのではなかろうか。・・・以下略・・・」
これらについて論じる前に、もう一冊の本からも引用します。
アマデウス・シンドローム
品川博二著「アマデウス・シンドローム」より
P38「私は次のように考えます。このアマデウスとは<「自分が十分に愛され、さまざまな条件に恵まれ満ち足りた状態」なのであり、「自分の存在に不安や疑いを持たない状態」>です。換言すれば、<自分の存在が保護者によって全面的に保証されており、自分自身は全く責任を持たないですむ状態>なのです。これはかつて私たちが幼児期のごく初期に、母子関係の中で体験できた状態と考えられます。この状態をこの本ではアマデウス状況と呼ぶことにします。
・・・中略・・・
私たちが成長する過程で、厳しい現実は容赦なく私たちのアマデウス願望を打ち砕きます。それはきわめて困難で屈辱にあふれた体験です。自分は十分には愛されていないこと、才能は乏しくさまざまな条件は不備であること、そもそも自分がこの世に生まれるべきだったか否かも自信が持てなくなります。私たちは「無条件に自分を愛してくれる保護者」の不在を泣く泣く認め、恐る恐る「単独で世界に出合う」ことを決断(諦める)するのです。別の視点から述べると、大人とは、その個人の歴史の中に依存性を放棄し孤独性を引き受けてきたものである、といえます。しかし、この依存性を放棄し孤独性を引き受けたときの傷を十分癒やせている人は一人もいません。したがって、すべての人間は、自分の心の内にアマデウス願望を喪失した悲しみと恨みを持っています。つまり「私は愛されていない!」との不安がそれです。」
私の見解・意見
では、ここから私の見解を述べていきます。
まず、この2冊のこの箇所において、両氏の深い分析と表現に感嘆しました。
私自身は「その通りだ」と感じましたので、両氏の意見をベースに論じていきます。
引用箇所から分かることを挙げていきましょう。
一体感欲求
①私たちは「母子一体感の満ち足りた状態」への欲求がある
ちなみに母子一体というのは、いわゆる社会の人間関係の原型(ベース)となるものですが、母子が本質的な原型ではないと私は捉えています。
母親というのは、自分を産んだ人です。
つまり、人間という存在を産みだした存在への一体感というのが、本質的な原型であり、いわゆる創造者(※便宜上、創造「者」と書きましたが、人ではなく、個でもないと考えます)との一体感です。
大いなる存在とか神などと呼ぶ人もいるでしょう。
自分を創造した存在との一体感(ワンネス)を求める欲求が、私たちの根源にあると私は捉えています。
この「自分を創造した存在との一体感」こそ、品川氏が呼ぶ「アマデウス状況」であると私は考えます。
分離否定
②私たちは分離の事実を否定したがる
土居氏が書いた「人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとする」ことについて、私なりの言葉で書けば、分離の事実を受け止めてしまえば、母子一体感を得ることができないとなってしまうため、それをあきらめることができないわけです。
つまり、分離を否定したがる衝動・欲求を持っています。
愛を得られないことに耐えきれないため、一体感をいつまでも追い求めます。
これこそが「甘え衝動」に他なりませんが、一体感欲求が強すぎると、人生がそこにコントロールされてしまいます。
一体感欲求は分離否定から生じる
つまり、一体感欲求を得ようとするための人生を歩むことになります。
土居氏が説くように「悟り」を目指す欲求はここから来ていると考えられます。
そう考えると、一体感を求める欲求は、分離否定から来ていることが分かります。つまり、どれだけ一体感を得たとしても、分離否定が根底にあるため、分離を深めていくことにしかならないと私は考えます。
一体感欲求の個人差
この一体感欲求に関しては、人によって程度が違っていて、いわゆる愛着障害と呼ばれる、母子分離の激しい子どもは一体感の飢えが激しいため、それだけ一体感欲求が強く、この衝動にコントロールされる人生を歩まざるを得なくなります。
これが精神不調の根源の一つではないかと私は考えています。
両親から健全な愛着を受けて、母子分離欲求が少ない人は、一体感欲求が過度ではないため、十分コントロールできる範囲になり、甘えの衝動に歪められることなく、自分の本心から来る欲求や、他者への愛情ある配慮ができる度合いが高いと考えます。
但し、そうは言っても、一体感欲求は誰にでもあるもので、それが健全レベルに存在するか、過度の衝動になっているかの違いとなります。
一体感欲求を否定しないこと
そのため、私は一体感欲求を克服してなくそうとするのではなく、過度の衝動レベルをコントロールできる健全レベルにしていくことが重要であると考えます。
事実を認めること
そのために大切なことが、事実をきちんと認めることです。
自分の内側に「一体感欲求(アマデウス願望)」があることを認めることが大切です。
自分の内側と向き合い、その存在をきちんと自覚することが欠かせないと思います。
次に「分離の事実を否定したがっているということ」を素直に認めることです。
もっと先にある目標は「分離の事実を認めること」ですが、これはなかなか難しいので、まずは、分離の事実を否定したがっていることをきちんと認めます。
責任感がない状態
一体感というのは、品川氏が書いた<自分の存在が保護者によって全面的に保証されており、自分自身は全く責任を持たないですむ状態>です。
人は、この状態で自分の好き勝手したいのです。
この欲求を人間は持っています。
よく「孫の面倒を見るのは楽しい」と言いますが、責任がないから楽しいんです。
ネット掲示板で匿名で好き勝手言うのがストレス発散になるのは、全く無責任の立場で発言できるからです。
趣味が楽しいのは、責任がないからです。
好きなことでも仕事にすると楽しくなくなるのは、責任が発生するからです。
一体であるとき、自分の責任はなく、存在が保証されているため、ものすごく心地いいでしょう。
一体感でとどまることはできない
でも、その状態だけでとどまると人間は生きていけません。
人間というのは活動、行動していく存在です。
一体となってそこで何もしなかったらそれは死です。
そのため、一体となって、かつ、個として活動していきたいのです。
では、分離の事実を認めるということはどういうことかというと、自分は個であるという自覚を心の底から持つことです。
単純に「個に決まっているじゃん!」というような捉え方は、本当に自覚している状態ではありません。
心の深いレベルで、分離への否定があり、個として認めたくないんですね。
ここをきちんと認めきることが、根源的な「ありのままを受け入れること」だと私は思います。
自分の人生に責任を持つこと
個として自覚するということは、責任を母から自分へ、神から自分へ引き戻すことです。
つまり、母に自分の責任を押しつけないことであり、神に自分の責任を押しつけないことです。
母や神に責任を押しつけることが「甘え」ですね。
好き勝手したい欲求は誰しもあるのが自然です。
「自分の存在が保護者によって全面的に保証されており、自分自身はまったく責任を持たないですむ状態で、好き勝手したい」というのは、甘えの意識ですよね。
自分が責任を持ったうえで、好き勝手することは、甘えではありません。
個として一体感を楽しむ
私は、一体感を持つことを全面的にあきらめなさいと言っているわけではありません。
同じ趣味を持つ者同士の一体感や、同じサッカーチームを応援する人同士の一体感や、同じ苦労をした者同士の一体感や、夫婦・家族・恋人の一体感など、個として自立したうえで、楽しめばよいと思います。
過度な一体感欲求を持つ状態では、関係性が「依存」関係にならざるを得ません。
個の受容こそ、分離の事実を受け入れることであり、それが「分離」の受容です。
潜在的な一体感欲求に対して、分離の受容が重要だと私は考えています。