最近の、ボクのホットなトピックは「本当は何もしなくていいんだ」ということです。
クライアントさんにもこのことを言うことが多くなりました。
ただ、この「何もしなくていい」というのは文字通り捉えてしまうと誤解して伝わるので、この記事でできる限りニュアンスを伝えていきたいと思います。
ボクの癒しのストーリー
完璧主義だったボクがダメさや欠点を受け入れる大切さを知る
元々自己価値が低かったボクは、自己価値を上げるために高いハードルを自分に課していました。
がんばることで成績が良かったこともありましたし、できない分野は自己嫌悪に陥って、自己批判の思考に飲みこまれていました。
カウンセリングを学んでから、理想を達成するのではなく、自分がダメだと思っていることを受け入れることが大切であることを知りました。
そもそも理想なんて達成不可能でしたし(完璧主義者でしたから)、理想を達成したところで、大して満足感はありませんでした。
「もっともっと…」を求めていましたので、すぐ次の苦しみや不満を自分で作っていました。
自分のダメさや欠点を受け入れることは、ボクにとってとても大切なことでした。
ダメさや欠点を受け入れることで、自己批判も減ってきました。
ダメさや欠点を受け入れることは難しい
ただ、ダメさや欠点を受け入れるのは容易なことではありません。
本には「受け入れたら楽になります」などと簡単に書いてありますが、簡単にできれば苦労しません。
ダメさや欠点を努力して受け入れるプロセスそのものに少し無理があります。
がんばって何かをすることが逆に執着になって、余計手放せません。
むしろ、いい意味であきらめることができれば、ふっと受け入れられるものです。
とはいえ、あきらめることもそう簡単には行かず、ある程度がんばることで早くあきらめられたりするので、コトは単純ではありません。
自分を癒すとどうなるか?
自分を癒すとどうなると思いますか?
ボクは昔は、すごい人になるんじゃないかと思っていました。
人格者で、感情にも飲み込まれず、能力も花開いて…みたいなイメージを漠然と持っていました。
最終的には悟るんじゃないかとも思っていました。
癒しを実践して分かったことは、そんなことはまったくないということです(笑)
残念なことに、何にも変わらないんです。
何も特別なものは身についていません。
性格だって、むしろ周りから感じると悪く感じるようになったんじゃないかと思うくらいです。
あっ、そういう意味では変わったかも(笑)
自分を癒すと素の自分に近づく
カウンセリングを受けたり、セラピーの自己ワークをやってできあがったのは、等身大の自分でいることが以前よりもグッとできるようになったことです。
つまり、自分を癒すと素の自分に近づいたということです。
演じることが少なくなった分――演じるといっても無意識のレベルなので自分が演じているという実感は当時ありませんでしたが――、周りから見ると扱いにくくなったかもしれませんね。
いい人を無意識に演じていましたから。
今のボクは、昔のボクと同様、未熟で欠点だらけです。
未熟や欠点というのはレッテルであって、本当は単なる資質や能力を表しているだけなので、本当は欠点でも未熟でもないのですが…
等身大の自分でいられるようになると、未熟な面や欠点が欠点だと思わなくなります。
欠点であったとしても、「まあいいか」と思えるようになります。
だって現実はそうなんだから。
今この瞬間、変えられないし。
今は自分の価値観でもないので変える必要はないし。
もちろん自分で変えたかったら変えればいいですけど、この瞬間、変えたいと思わなければ放っておきます。
そのままでよかった。何もしなくてよかった
「なんだ。ボクはそのままでよかったんだ」
「何も変える必要はなかったんだ」
「何も変える必要はないのなら、本当は何もしなくてよかったんだ」…
この、「何もしなくてよかったんだ」という気づきのために、癒しのワークをやっていたようなものです。
何もする必要がないのに「しなくちゃ」と自分で自分を苦しめていたことに気づくわけです。
そこに気づくためにたくさんの行動をしました。
そういう意味では何かをする必要があったともいえます。
無駄といえば無駄な行為なんですが、決して無駄ではなかったです。
問題は自分自身で作っている
ボク自身も人生の中でたくさんの問題を抱えます。
人間だから当たり前ですね。
で、問題をひもといていくと、自分自身で作っていたことに気づきます。
自分で問題を作っている一つの例
分かりやすい例だと、仕事をたくさん抱えていて、「なんでオレばっかり」とか「オレは損している」、「上司はオレにばかり仕事を押しつけている」などと不満があったとします。
でも、よく見てみると、自分が仕事を頼みやすい雰囲気を出していたり、断らなかったり、責任感が強すぎたりすることに原因があるわけです。
問題が自分にあることに気づくと、自分を変えることをします。
自己主張やノーを言えるようになったり、責任感を緩めたりします。
そうすると、不満が減ってきます。
周りの不満が気になるかもしれませんが、そこも気にならないようにしていきます。
でも、何かしているんじゃないの?
問題解決のために、
「自己主張ができない→できる」
に変化しているわけですから、
ボクが「何もしなくていい」と言っているのは当てはまりません。
そういう意味では何かをする必要があります。
でも、それは何かを付け加えているというよりも、素の自分に戻している感じです。
自分の心地よい範囲を超えて、無理した自分だったので苦しかったわけです。
それを無理せず背伸びしない自分でいることで苦しみを緩めています。
なので、本来の自分に戻るための変化ともいえます。
この辺はボクもうまく整理できていないところもあるのでケースによっては反例がたくさんあるかもしれません。
何もしなくていいという気づき
で、本来の自分に戻って、心地よさを知ったとき、
「あれっ、無理しなくても、背伸びしなくても、そのままでよかったんだ」と気づきます。
「何もしなくていい」というのはこういうことです。
他の「何もしなくていい」という状況
他にも「何もしなくていい」という状況があります。
Aという選択肢、Bという選択肢、Cという選択肢があったとします。
それぞれメリットデメリットがあり、どれかを選ばざるを得ないとき、葛藤や悩みが生じます。
よくあるケースなのですが、本当は今選択する必要がないのに、不安や葛藤を解消するために今選択してスッキリさせたいと考えているケースです。
今選択しないといけないと「思い込んで」います。
でも、実は今は何もしなくていいことがたくさんあります。
何かをしたいとと思ったときにすればいいだけです。
「今しないといけない」と思い込んで不安や悩みや不要な行動を増やしている
今、将来のために何かをする必要はないのに、何かをしなければいけないと考えて、不要な行動や悩みを増やしています。
でも、不安どおりにコトが運ぶことは少ないし、問題に直面してからでも遅くないのに、「安心」を求めて、今をトコトン犠牲にしています。
そういう意味で、実は「何もしなくていい」ケースが多々あります。
他にも「何もしなくていい」という事例があると思いますが、またボクに気づきがあれば紹介したいと思います。
結局何もしなくていいのなら、はじめから何もしなくていいの?
ここで、「何もしなくてよかったんだ」という気づきを書くと、「じゃあ、何もしなくていいのか」と思うかもしれません。
そんなことはありません。
だって、「何もしなくてよかったんだ」って気づいていない(腑に落ちていない)でしょ。
そう気づいた人は、「何もしないこと」が自然にでき、そこに自己批判はありません。
でも、そこが腑に落ちておらず、頭で理解したことであれば、「何もしないこと」をやると自己批判が出てきます。
無理をしていますね。
なので「何かをしないといけない」と思っているその思いを大切にすることが、等身大の自分であることです。
ややこしいですね(笑)
「何かをしないといけない」と思っているその思いにフタをせず、きちんと目を向けていくと、何らかの気づきがあるかもしれません。
何もしなくても心地よく生きていける
なぜボクが「本当は何もしなくてよかった」ことを書いたかというと、何もしなくても心地よく生きていけるということを知ってもらいたいからです。
人は、何かしないとうまくいかないと思い込んでいます。
実際にそうですよね。何もしなかったら、死んじゃいます。
そういう意味で物理的に「何もしない」ということではありません。
物理的には何かしますよ、当然。
ここで言いたいのは、私たちは不要な行為をたくさんしていて、むしろその不要な行為によって問題を作り出していることが多いということです。
でも、それが「不要な行為」だと気づいていないんです。
だから苦しみがあります。
それが「不要な行為」だと気づくことが、「何もしなくてよかった」ことを腑に落とせる瞬間でしょう。
今、皆さんが問題を抱えていたとして、
「もしかしたら何もしなくていいかもしれない」
と疑ってみると何か発見があるかもしれません。
とはいえ、それを考えてみることで余計混乱してしまったとしたら、無視してくださいね。