分離の時代と統合の時代
動画やセミナーでは、スピリチュアルのお話もしています。
私たちは肉体だけの存在ではなく、輪廻転生する魂の存在で、地球に生まれたのは意識を広げるため、成長するためだと言われています。
そして、スピリチュアルでは大きな時代の流れがあると言われています。
分離の時代と統合の時代をくり返しており、今は統合時代の入り口です。
分離は善悪の価値観が強い時代
分離時代は個の可能性を試す時代であり、戦争、支配が当たり前に起こっていた時代でした。善悪の価値観を強く持っていた時代でもあります。
今入口に立っている統合時代は個の調和の時代であり、いろんな価値観を認めていく時代です。
相手と私はまったく違うもので、相手を自分の価値観に従わせるというのが分離の特徴です。
統合は、私と相手を対等に見て、お互いを尊重するため、他者のあらゆる価値観を許し、認めていきます。
一見、統合時代のほうが理想的に感じるでしょう。
まあ、一般的には平和で調和の取れている方を好むでしょう。
争いや支配される方は望まないでしょう。
そのため、統合を目指そうとします。
統合を目指すときの落とし穴
このとき、起こっているのは、分離を否定して統合を目指そうとしていることです。
「統合=善、分離=悪」という価値観で統合を目指します。
これは、善悪の中身が変わっただけで、本質のあり方が変わったわけではありません。
善がすり替わっただけです。
平和を説く人に争いごとが起こる理由
そのため、平和を説きながら、なぜか自分の周りでは争いごとが起こります。
平和を説いている人でよくあるのが、争いごとをしている人に対する批判、攻撃です。
平和を説いているのにやっていることは争いです。実際に争わなくとも内面は争っています。
内面が平和でないのに、どうして外側が平和になるのでしょうか?
統合を説きながら、自分や周りに分離が起こる理由
また、統合を説きながら、分離時代のあり方であるランク付け、階級、差別が起こります。
統合は対等が原則であるにもかかわらず、知らず知らずのうちに自分を一段上の立場に置こうとします。
そうすると、統合を説きながら、なぜか自分の周りでは分離が起こっています。
あり方が分離だからです。
分離を否定することが分離のあり方
分離を否定すること自体が、分離のあり方なのです。
統合と分離をくり返すのは、それが必要だからです。
なぜ必要かはあえて書かないことにします。
興味がある人は考えてみてください。
ネガティブな経験や感情を受け入れる二つの段階
私は、ネガティブな経験や、ネガティブな感情そのものの良さを知ってもらうことをセミナーやセッションでお伝えしています。
恐れは必要であるという理解
たとえば、恐れを例に取りましょう。
もし、恐れがなかったらどうなるでしょうか?
恐れがなかったら私たちは早死にすると言われています。
なぜならリスクを取りすぎてしまうからです。
リスクが分からないというのは生きる上で非常に困ることです。
恐れがなければ無謀なチャレンジをしてしまいます。恐れは生きるうえで必要です。
恐れが強すぎるのも困りますが、適切な恐れは欠かせません。
詳しくは書きませんが、怒りや悲しみや不安、恐れなどあらゆるネガティブな感情は必要があるから存在しています。
ネガティブな感情は必ずしも悪いものではないという理解が第一段階
第一段階の理解は、ネガティブな感情は必ずしも悪いものではないという理解です。
「ポジティブな経験や感情=善、ネガティブな経験や感情=悪」
という狭い理解から抜け出すことです。
ただ、この段階ではまだ、ネガティブな経験や感情そのものがよいと思っているわけではありません。
ネガティブな経験や感情が必要悪だと思っている段階です。
たとえば、怒りは自己愛を知るためのシグナルです。
この仕組みはハートシフト・セミナーでお伝えしています
そこが分かると、怒りを悪いものだとはみなさなくなります。
怒りを健全に扱うことができ、怒りを生じさせる出来事を、自己愛を向上させるための出来事として扱えるようになります。
この段階はとても大切な段階で、まずはここを目指すことになります。
第一段階ではネガティブな出来事や感情を必要悪として捉えている
しかし、先に書いたように、怒りを生じさせる出来事や怒りの感情そのものは、必要悪として捉えています。
「怒りを生じさせる出来事や怒りの感情を過度に起こさせないように、早く自己愛を上げましょう」と私は伝えることがありますが、これはこの段階の人に向けたメッセージになります。
自己愛が上がるにつれて、ネガティブな出来事や感情が減ってきますが、同時にネガティブな出来事やネガティブな感情そのものの素晴らしさを知ることになります。
ネガティブな出来事や感情そのものが素晴らしいという理解が第二段階
怒りは必要悪としてあるものではなく、怒りそのものが素晴らしいものだ(愛である)という理解です。
これが二つ目の段階の理解です。
このとき、怒りや悲しみや恐れなどのネガティブな感情をネガティブとはみなさなくなります。
喜怒哀楽は、すべて等価であることが腑に落ちています。
このとき、感情にポジティブ、ネガティブのレッテルを張らずに、ありのままを出せるようになります。
これが善悪のない状態で、統合です。
冒頭で説明した分離も同じことです。
分離そのものの素晴らしさ、統合そのものの素晴らしさ、分離と統合がある素晴らしさを理解し、等価であることを腑に落としたとき、本当の意味で統合に至ります。
頭の良し悪しの例
分かりやすい例に変えましょう。
分離の状態
頭の良さを善とし、頭の悪さを悪としているとしましょう。
頭の悪さを強く否定して、隠したり、頭の良さを目指そうとするのが分離のあり方です。
これによって苦しんでいる人も多いでしょう。
第一段階の理解
頭が良いことは必ずしも素晴らしいことだけではなく、頭が悪いことも必ずしも悪いことでもないという理解が第一段階の理解です。
これは大きな一歩です。
頭が良すぎる人と会話すると、何を言っているか分からないことがよくあります。
頭の回転が早すぎで、相手も同じ理解ができると思っているので、丁寧に説明するプロセスが欠けてしまいます。
大人と小学生が会話するようなもので、同じレベルで話せません。
そうすると、人間関係で困ることも多いと思います。頭が良すぎるというのもまた困りものです。
この視点に立つと、頭が悪いことをポジティブに受け取ることができます。
頭が悪いことでゆっくりした理解になります。ゆっくり丁寧に理解するプロセスは、他の人が理解する上でとても役立ちます。
小学生が読んでも分かるような参考書は、初めてその分野を学ぶ人にとってとても役立ちます。
以前、おバカタレントがもてはやされましたが、彼らは周りをなごませ、楽しませました。
頭が悪いとバカにされるとか、そういうことでネガティブに捉えていることもよくあります。
しかし、これは頭が悪いこととは別問題です。
バカにされることをダメだと思っているに過ぎません。
仮に、バカにされても平気であれば、頭が悪くても気になりません。
第二段階の理解
第二段階の理解が、頭が悪いことそのものが素晴らしいと知ることです。
頭が悪いこと、これを知的レベルが平均よりも低いと定義します。
このときに味わえる感覚そのものは素晴らしい体験です。
知的レベルが高い体験も素晴らしいものですが、低くても同じく素晴らしいものです。
ここに優劣はありません。
体験そのものに優劣はない
その段階でないと味わえない体験があり、体験そのものに価値の優劣はないのです。
フランス料理を食べるのと、和食を食べるのと、好みはあっても優劣はありません。
どちらも素晴らしいものです。
フランス料理にはフランス料理独特の素晴らしい味わいがあり、和食には和食独特との素晴らしい味わいがあります。
もし、フランス料理は和食よりも優れているという価値観があれば、和食を食べていても劣等感を感じながら味わうことになるでしょう。
どの体験も素晴らしいという理解
どんな知的レベルであっても、そこに善悪の価値観がなければ、体験そのものがあるだけです。
その体験そのものを味わうとき、そこに喜びを見出すでしょう。素晴らしさを見出すでしょう。
このとき、世界は素晴らしいものしかないことになります。
地獄は存在しなくなります。
外側は内面世界の反映と言われていますが、まさに内側の世界観を反映しているのです。
どの体験も素晴らしいという理解が起こり、どの体験をも尊重できるとき、他者の人生をそのまま信頼・尊重できることになります。
内側に平和が起き、外側も平和が起きます。
次回は私の経験から善と悪の統合について書いていきます。