責任感を持つ、持たないの白黒問題
「責任感を手放そう」とメッセージがあります。
このとき、ゼロ百の白黒思考で考えてしまう人は、責任感をすべて「手放す」をやりがちです。
しかし、それだと必要な責任まで放棄してしまいかねません。
責任を手放す必要がある人は、境界線を越えて、他者の責任を背負っている人です。
他者や会社の責任を背負って、しんどくなってしまい、それが行き過ぎると心身の不調につながります。
うつや睡眠障害やめまいや体調不良などです。
この場合、他者の責任を手放すことが求められます。
そして、大事なことは、自分と他者の責任範囲の区別です。
それはブログにも書きました。
自分の責任範囲の責任を持つ
無責任は問題で、必要な責任を持ち、不必要な責任を手放すことが大事です。
それは、自分の責任範囲では、きちんと責任を持ち、他人の責任範囲では、責任を他者に委ねることです。
責任感が強い人ほど、他人の責任を背負い込み、なぜか自分の人生の責任を取っていない人が多く見られます。
自分の人生は自分の責任範囲
原則として、自分の人生というのは自分の領域です。
なぜなら、他人が誰かの人生に取って代わることはできないからです。
あなたが他人の人生をある程度コントロールはできたとしても、他人の意識にまで入ることはできません。
あなたは決して他人の人生の「主体」にはなりえません。
逆に、他人は決して私の人生の「主体」にもなりえません。
自分の人生は自分の領域であり、自分が責任を持つものです。
資質や成果は責任範囲外
もちろん、自分の性質や特性は自分で決めたものではありませんから、自分の責任ではありません。
そこまで自分の責任だとするのが「自己責任論」です。
自分の資質や特性から得られる「成果」まで責任を伴うとしている考え方です。
自己責任論は境界線が適切に引けていないことの表れです。
人生の成果に責任を持とうとするのは、自分の人生に責任を持つことではありません。
ここを勘違いしている人は多いかもしれません。
うぬぼれや劣等感の元
もう一度書きますが、人生の成果というのは、自分でコントロールできない資質の要素が大きいです。
たとえば、勉強面では才能が大きく関わってきます。
数字が苦手な人が、数学で成果を出すのは難しいです。
また、運動神経が鈍い人が運動で成果を出すのは難しいです。
芸術も同じです。
そこの成果を「自分の責任」としてしまうことは、明らかな境界線の認識間違いであり、うまくいけば「うぬぼれ」になり、ダメなら「劣等感」になります。
両方とも勘違いに過ぎません。
成果のプロセスに責任を持つ
もちろん、成果は大事です。
成果に向けてがんばることは大切です。
その意欲や情熱は人生の輝きをもたらします。
しかし、成果そのものを自分の責任としてしまうと、かえって成果に向けてがんばることの妨げになります。
成果に責任を取らないことは、一見無責任のように感じるかもしれません。
しかし、そのように感じることは境界線が理解できていないためです。
自分とは関係ない要素に責任を背負っているにすぎません。
自分の領域に責任を持つことが大切です。
成果を上げることに責任を持つならば、成果を上げるためのプロセスに責任を持つほうが妥当です。
つまり、成果を上げるためにどうすればよいかを考え、試行錯誤し、取り組んできたプロセスです。
これはあくまで「自分が」考え、行動した結果であり、そのプロセスの責任は自分に属するものです。
言い換えれば、自分でコントロールできるものです。
成果そのものは自分がコントロールできない範囲が多いのです。
私は成果よりもがんばりを重視すべきと言っているわけではありません。
そうではなく、「どう」がんばったかを重視すべきで、成果が出ない場合は、前提を見直すことが必要です。
そこの作業をやらずに、結果だけで責任を問うのはあまり意味がないと思います。
自分の人生の責任を取る
では、自分の人生の責任を取るとはどういうことでしょうか?
自分がどう生きるかということを自分で決めるということです。
たとえば「あなたはどんな仕事をしたいですか?」と聞かれて「何でもいい」と答える人は、自分の人生の責任を取ろうとしていないことが分かるでしょう。
自分の人生をどうしたいかについて考えていないからです。
どうしたいかを考えること
もちろん、「何年後に何をして、何をやって・・・」と具体的に決める必要はありません。
人生は何が起こるか分からないのも事実で、あまりに細かく決めてしまうと逆に縛られてしまうのでそれも問題です。
しかし、自分の人生に責任を取らない人たちは、あまりにも自分の人生を考えていません。
他者が決めることに流されすぎています。
「あなたはこれからの人生をどう生きたいですか?」
「これからどう生きたら死ぬときに後悔がないでしょうか?」
「何をやりたいですか?」
「どんな体験をして、どんな経験を積みたいですか?」
「どんな学びをしたいですか?」
「どんな感覚を味わいたいですか?」
「どんな人と一緒にいたいですか?」
「どんな人とどんな体験をしたいですか?」
「どんな仲間と仕事をしたいですか?」
これらは時間の経過とともに変わって当然のことです。
自分が成長し、価値観が変わってくると求める人生が変わってくるでしょう。
価値観や求めることが変わることはまったく問題ありませんが、考えないことは「自分の人生に責任を取る」という点で無責任としか言えないでしょう。
人生の責任を取らない人は他者からのよい介入を望む
また、自分の人生に責任を取ろうとしない人は、他者のポジティブな介入を望みます。
ネガティブな介入は当然ながら望みません
「幸運が起こって、いい仕事と巡りあえばいいのに」
「幸運が起こって、いい人と巡りあえばいいのに」
「誰かが、いい仕事やいい人を紹介してくれればいいのに」
「誰かが、人生がうまくいく方法を教えてくれればいいのに」
そういった考えが強くあるようでしたら、自分の人生に責任を取ろうとしていない証拠です。
他者へのよい介入をしようとする
そういった人は、逆の考えも持ちます。
「私が、あなたの人生をよくする方法を教えてあげる」
「私が、あなたにふさわしい人を紹介してあげる」
「私が、あなたが幸せになる生き方を教えてあげる」
「私が、あなたにふさわしい仕事を紹介してあげる」
「私が、あなたの苦しみを取り除いてあげる」
この考えこそ、他者の人生への介入です。
「それができるかどうか」ではありません。
その意識があることが境界線越えです。
親が子どもの「幸せ」について介入しようとするとき、それは境界線越えであることを理解しておきましょう。
恋人や夫婦が、パートナーの「幸せ」について介入しようとするとき、それは境界線越えであることを理解しておきましょう。
その人の人生をどう生きるかはその人自身の問題です。
人生の責任を取る人は他者の介入を好まない
逆に言えば、自分の人生の責任を取ろうとしている意識のある人は、他者の介入を好みません。
それが仮に「よいこと」でその人にとって「得」であったとしてもです。
他者が介入すれば自分が責任を取れなくなってしまいます。
しかし、それは「他者を介入させない」というわけではありません。
すべて自分でやろうとするのも問題です。
助けてもらいたいと思うところは積極的に他者に助けを求めてよいです。
但し、それはあくまでも自分の意志で、自分の責任で、助けを求めるのであって、その場合、どの範囲で助けを求めるかということも自分で決めておいたほうがよいでしょう。
全部お任せというのは「責任の丸投げ」になってしまいます。
他者が自分の意志で、自分の責任で助けを求める前に「勝手に」助けてしまうのは、他者の人生の責任を「奪う」行為です。
自分の人生の責任を取れていない人や、他者の人生に介入しようとする人は、まず、人生そのものはその人の領域であることをきちんと腑に落としましょう。
それができれば、「自分の」人生をどうしていこうかということにもっと関心を持つようになるでしょう。