スコットランドの社会人類学者であったジェームズ・フレイザー(1854-1941)は、呪術から宗教、宗教から科学へと進化したとみなしました。
いわゆる実験によってきちんと証明するという近代科学は17世紀に起こります。
ガリレオ・ガリレイが近代科学の創始者だと言われています。
それまでは、科学は頭で思考するだけの学問でした。
今は科学の発展はすさまじいですが、歴史的にはかなり短いと言えます。
科学の前は、宗教全盛期でした。
世界史では、キリスト教など、宗教が長年にわたり、強い影響力を持っていました。
宗教以前は、呪術でした。
日本でもそうですね。
霊的なものというのがごく自然に信じられていました。
今は胡散臭いと見られていますが、当時はそれが常識でした。
祈祷や占いが強い影響力を持っていました。
フレイザーは呪術の原理を2つに分類しました。
「類似の原理」と「感染の原理」です。
類似の原理は、「類似の行為は類似の結果を生む」というものです。
たとえば、わら人形にくぎを刺すというような呪いはこの原理ですね。
感染の原理は、「かつて互いに接触していたものは、接触がなくなった後でも距離を隔てて相互に影響を及ぼしあう」というものです。
フレイザーは因果法則が客観的に妥当だとされるのが「科学」であり、単に主観的に信じられているにすぎないのが「呪術」だと考えました。
フレイザーは呪術を「疑似科学」だと言いましたが、確かに合理的に考えると呪術の原理はナンセンスです。
接触したものが離れた後も影響を及ぼすというのは合理的に考えるとありえません。
しかし、私たちはなぜかこれらの原理を信じています。
たとえば、自殺があったマンションの家賃が安いのは、感染の原理を信じている証拠です。
においなどがある場合は別として、合理的には関係がないはずです。
また、自分が好きなアイドルの持ち物に高価な価格を付けるのは、感染の原理を信じているからです。
犯罪者が着た服をなぜか着たくないのも同様です。
心理学の実験で、誰かが着たセーター(洗濯済)について、着るのをちゅうちょしたのは、その誰かが「病人」「交通事故にあった人」「死刑囚」の場合だったことが明らかになっています。
つまり、感染の原理では、接触によって伝染するのは、「病気」「運の悪さ」「残忍さ」も含まれるということです。
病気の感染の恐怖は合理的に説明がつきますが、心理的なもの、道徳的なものが感染するというのは非合理です。
しかし、非合理であっても私たちはそれを強く信じているのです。
その理由の一つが、コントロール欲求です。
先の例だと、「交通事故にあった人のセーターを着ると、交通事故にあう可能性が高くなる」と考えているわけです。
なぜそんな非合理的な考えを持つのでしょうか?
交通事故にあうのは恐いですね。
あうことを考えると不安になります。
その不安を解消するために、交通事故にあわないようなコントロール感が欲しいのです。
「交通事故にあった人のセーターを着ると、交通事故にあう可能性が高くなる」という考えを信じることで、実際にそのセーターを着ることを避ければ、物事をコントロールしている感覚が得られます。
非合理的な考えを持つことは、自分が周囲の物事をコントロールしていると感じ、不安を軽減するための方法なのです。
何らかのメリットがあるという意味では合理的なのかもしれませんね。
ただし、私たちは損得を合理的に捉えられないようです。
低いセルフイメージを生むような信念は、人生に大きくネガティブな影響を与えます。
「私は大事にされない」
「私は価値がない存在だ」
「私は運が悪い」…
こういった信念もまた不合理です。
しかし、それが分かっていても強く信じています。
脳は、意味のない嘘をつきます。
見たいものを優先に見ていますし、記憶も都合の良いように改変しています。
あちこちに意味を作り出し、連想を働かせ、因果関係を作り出します。
たとえそれが非合理であったとしても、その因果関係を信じるのです。
なので、私たちは非合理な信念を持つことを避けられません。
ですが、それは私たちにとって好都合である面もあります。
合理的でない信念でも信じられるということは、根拠なくポジティブな信念も持てるということですよ。
「私は愛される存在だ」
「私は価値がある存在だ」
根拠がなくてもそう思っていいんです!
マトリックス・リインプリンティングは大きな手助けになるでしょう。