「甘え=よくないもの」という風潮
日本では甘えることをネガティブに捉えている風潮があると思います。
甘え=がんばっていない、ズルをしている、楽をしている、責任を他者に取ってもらっている・・・
そんなイメージがあるのではないでしょうか。
確かにこの捉え方だと「甘えはよくない」と感じるのが自然でしょう。
「甘え=よくないもの」とする弊害
ゼロ百思考で、「甘え=よくない」としてしまうと、必要な甘えができなくなってしまいます。
つまり、人に頼りづらくなってしまいます。
これが分かりやすい弊害です。
心理面では、甘えの欲求を抑圧することで、甘えの欲求が無意識に行き、コントロールできない形で表出化することになります。
これがよくない出方となります。
甘えを抑圧したときの不適切な出方
このよくない出方の例をいくつか紹介しましょう。
一人で抱え込んで最後に投げ出す
甘えを抑圧すると、何でも自分で抱え込もうとします。
たとえば、仕事でいっぱいいっぱいになっていても、上司や同僚に助けを求められず、できる限り自分でやろうとします。
結果、キャパオーバーになって、メンタル面や身体面で不調が生じ、最終的に自分の責任を全部放棄することになります。
こうなると、他者に大きな迷惑を掛けることになります。
迷惑を掛けたくないからとがんばった結果、もっと大きな迷惑を掛けてしまう結果になるのです。
分かってほしい、察してほしいの表出
甘えを抑圧している人は、甘えたい気持ちがないわけではありません。甘えたい気持ちは誰しも必ずあるものです。
その気持ちを抑圧しています。
そのため、甘えを素直に表現できず、他者に察してもらいたくなります。他者に分かってほしい、気づかってほしいという欲求が強くなります。
自分の気持ちを他者に分かってもらいたいのに、それを言えないがゆえに、回りくどく分かってもらおうとします。
結果、めんどくさい人になってしまいます。
これが、人間関係がうまくいかない原因になります。
自分の気持ちを分かってもらえないことに対して嫌みを言ったり、「気が利かない」と文句を言ったり、「思いやりがない」と不満をぶつけたり、勝手に怒っていたりします。
他者はエスパーではないため、あなたの気持ちなど分かりっこないのに、分かってもらうことを求めるため、うまくいきません。
回りくどく分かってもらうやり方は、大抵嫌われます。
おおっぴらに自慢するのではなく、間接的に自慢しようとします。
自慢に見えない形で自慢しようとしますが、自慢したいという気持ちは他者に漏れているため、回りくどいやり方そのものが嫌らしく感じさせます。
それが嫌な印象を与えてしまいます。
甘えさせてくれる人に過度に依存する
甘えを抑圧して、結果的に自分が他者に頼らないと生きていけない状態になったとき、強制的に他者に頼ることになります。
このとき、頼られた相手は非常に重く感じます。
責任感を押しつけられている状態です。
選択肢がなく、やらざるを得ない状態なので、心理的に重いのです。
そういう人と一緒にいるのはストレスになるため、相手は離れたくなります。
そうなると、自分が困るので、見捨てられ不安が強くなります。
その関係性でつながると、依存関係になってしまいます。
無自覚な甘えが出る
甘えてはいけないと思っているため、誰かに頼っていることを自覚していません。
たとえば、会社の上司が「自分が成果を出した」と思っているとき、部下や別の部署の人たち、会社の看板や取引先の人たちがどれだけ自分に貢献してくれているかを自覚していないことがよくあります。
甘えてはいけないと思っていると、他者に頼っていないと思っているため、他者がどれだけ自分に与えてくれているかについて自覚がありません。
その自覚がないほど、傲慢さが生まれます。
その自覚があれば、感謝や謙虚さが自然に起こります。
他者の存在がどれだけ自分の助けになっているかについて自覚がなく、自分ががんばっていることや、自分が他者に何かをやっていることしか意識できないため、「他者は全然やってくれない」と不満を覚えることになります。
タチが悪いと言えます。
他者の甘えや責任を嫌がる
甘えを抑圧している人は、甘えを我慢しているとも言い換えられます。
そういう人は、他者の甘えが許せなく思えます。
自分は甘えを我慢しているのに、あいつは甘えを我慢していないのはけしからん!という理屈です。
そうなると、甘えている他者に厳しい態度になります。
また、他者の甘えを満たしたくないので、自分にメリットがない他者の頼みを聞こうとはしません。
適切な対価が発生するものでなければ、自分のエネルギーを出そうとしません。
それは人間的な器を小さいものにとどめます。
ビジネスは有償の助け合いです。
人間関係がすべてビジネスのような関係では、表面的な関係しか築けません。
無償の助け合いは、私たちの人生に彩りを与えてくれます。
過度な自己責任論になる
自分が甘えを抑圧していて、他者の甘えが許せない人は、過度な自己責任論になりがちです。
たとえば、オレオレ詐欺に遭った人に、「騙される方にも責任がある」というような意見になりがちです。
労りより先に、批難の思いが出るのです。
甘えを抑圧してきた人は、一人でがんばってきた度合いが強いので、その分、苦労しています。
「自分は苦労して努力して結果をつかみ取ってきた。だから、不幸な結果になっている人は自分の努力や考えが足りないのだ」というような考え方をします。
そういった人が多い社会は生きづらい社会になります。
また、自分自身の人生の苦しみを自己責任とするため、何か不都合なことがあると、自責に結びつけようとします。
それは他者に厳しいだけではなく、自分の首を絞めることにもなっています。
甘えの抑圧からの脱却
以上、甘えを抑圧したときに不適切な出方について、いくつか事例を挙げました。
では、ここからは、甘えを抑圧しないで済むようになるにはどうしたらよいのかについてヒントを紹介します。
甘えの定義
まず、甘えを適切な甘えと不適切な甘えに区別したいと思います。
私が考える区別を紹介しましょう。
まず、甘えの定義をします。
誰かに何かを頼むときに、適切な対価を払うことは甘えではありません。いわゆるビジネス関係です。
パンを買うのに、料金を払います。
このとき、ただでパンをもらおうとするとどうでしょうか?
これが甘えです。
つまり、対価を払うことなく、あるいは不当に低い対価で、他者の労力や助けを得ようとすることが甘えであると本記事では定義します。
この甘えは、ビジネスでは問題になりますが、問題にならない状況は当然あります。
家族や友人関係ではごく当たり前に発生します。
子どもが親にご飯を作ってもらうときに対価を払いません。
それは先の定義では「甘え」ですが、決して不適切なものではありません。
適切・不適切な甘えの区別
では、適切な甘えと不適切な甘えはどう区別すればよいでしょうか。
私が考える区別の一つですが、相手に頼ったり、頼んだりするときに相手に自由な選択肢があるかどうかが重要だと思います。
つまり、適切な甘えとは、他者に頼るお願いをするときに、それを断る自由があることだと考えます。
不適切な甘えとは、他者に頼るお願いをするときに、それを断る自由がなく、他者の依頼を受けるという選択肢しかないことです。
たとえば、相手がものすごく困った状態で、あなたに頼るしか相手の選択肢が残されていない状態で頼られたとしましょう。
このとき、いくら「断ってもいいよ」と表面的な選択肢を与えられたとしても、実質的に選択肢がないと言えます。
自分が断ると、罪悪感を持つことになり、それが嫌なので、助けざるを得ません。
これは、不適切な甘えです。
また、相手が断ったときに怒ったり不機嫌になることは、実質的に相手の選択肢を与えない頼み方であり、それは不適切な甘えに他なりません。
冒頭の「甘え=よくないもの」という考え方は、私の捉え方では、上記の「不適切な甘え=よくないもの」であり、適切な甘えは何も問題ないと考えます。
適切な甘えまでよくないものだと思ってしまうことが問題だと考えます。
不適切な甘えをやらないために
では、不適切な甘えにならないためにどうすればよいかを紹介しましょう。
まずは、自分の心にある甘えたい気持ちをきちんと認めることが大切です。
人は一人では生きられません
誰かに頼らないと生きていけない存在です。
それは自然なことです。
人に頼りたい欲求は、食欲と同じくらい当たり前に存在します。
その欲求は決して否定すべきことではなく、ただ当たり前に存在するものとして認めることです。
そして、頼りたいときは、相手に自由な選択肢を与えたうえで、いくらでも頼っていいと理解することです。
断られて落ち込むのは、相手にプレッシャーを掛けることになるため、それは不適切な頼み方です。
そうならないように、ピンチに陥る前に、早めに他者に頼ることが肝心です。
もちろん、災害など予期せぬ緊急事態のときに、他者に選択肢がない頼み方をするのは避けられません。
それは上記の「不適切な甘え」が許されるシチュエーションであり、そのときは「不適切」ではなくなります。
助け合いにするために
相手に断る選択肢を与えた頼み方は適切な甘えですが、それが一方的に続くと、不適切に変わります。
依存になってしまいます。
頼り、頼られることを完全に50対50にする必要はありませんが、自分が助けられたら、相手を助けることが自然な状態だと私は考えます。
それはその相手に限りません。
別の他者でもよいと思います。
自分が誰かに受けた恩を、別の他者に恩返ししてもよいと思います。
自分が、無償で受け取ってばかりであると、エネルギーのバランスがおかしくなります。
逆に、自分が無償で相手に与えてばかりでも、エネルギーのバランスがおかしくなります。
受け取り過多な人は、相手に与えることが課題であり、与え過多な人は、自分が受け取ることが課題です。
甘えを抑圧してきた人はしっかり甘える
「甘え=よくないもの」として甘えを抑え込んできた人は、甘えのニーズがしっかりたまっているため、それを適切な形で発揮する必要があります。
上記で紹介した「不適切な出方」にならないように注意しなければなりません。
相手にしてほしいこと、頼りたいことを表現してみましょう。
相手が断ることは、相手の権利であり、それは尊重しなければなりません。
Aさんに断られたら、Bさんに頼ればいいと思います。
あるいはAさんに、どの程度なら頼れるか聞いてみてもよいでしょう。
他者の貢献欲求を満たしてあげることは与えること
人は、誰かを助けたいという欲求があります。
誰かを頼ることは、その欲求を満たしてあげることとも言えます。
だから、頼ることに卑屈になる必要はありません。
相手の欲求を満たしてあげるのだから、相手にもプラスになるのです。
そのため、相手に頼った後は、相手の貢献欲求をしっかり満たしてあげることが大切だと思います。
つまり、相手がしてくれたことに対して、感謝と喜びを十分表現することです。
相手と助け合うことで、感謝と喜びの循環が起こる人間関係は、非常にポジティブな関係となることでしょう。
助けてもらっている自覚(意識)を広げる
不適切な甘えが出る人は、甘えを抑圧している人という論理で上記展開していきましたが、もう一つの考え方があります。
それは、自分がどれだけ他者に助けられているかの自覚がなく、それがゆえに「甘えられていない」と感じているため、甘えの欲求が生じているという考えです。
甘えている子どもは、親がどれだけ苦労しているかなど知るよしもありません。
そういう状態になっているということです。
こういうケースで甘えの欠乏感を感じている人は、いくら助けられても甘えの欠乏感は満たされません。
私たちは、自分の力だけで生きているわけでなく、先人たちの歴史によって、作られた社会で生きています。
そこにタダ乗りしているわけです。
つまり、無償で与えられているのです。
また、地球の自然環境は、私たちにどれだけの恵みを与えてくれているでしょうか。
そういった自覚を持つ人は、自分以外の存在から与えられているものの大きさを知っているでしょう。
つまり、他の存在から助けてもらっているという意識を持っています。
この意識を広げられている人ほど、自分は既に多くをもらっているという自覚があります。
つまり、それだけ豊かな人だということです。
その意味では、豊かさは所有する物質(金銭含む)の多寡ではないと言えるでしょう。
いくらお金持ちでも、自分が受け取っている自覚が乏しければ、不満を感じるはずです。
豊かさは、自分が受け取っているという自覚(意識)の大きさと言えるのではないでしょうか。
この自覚がある人は、当然ながら「無償で受け取ること」を受け入れていることが前提です。
甘えに対する否定感があると、無償で受け取ってはいけないと思っているため、実は私たちは極めてたくさんのことを受け取っているという当たり前のことに気づきません。
そのため、この論点でも「甘えの欲求」を罪悪感なく認めることが大切だと思います。
豊かな人は、自分が十分受け取っているという自覚があるため、与えることも惜しまないでしょう。
そして、受け取っていることに感謝があります。
それは、感謝と喜びの人生です。