苦しみの区別を考える
苦しみは誰しも嫌なものだと思いますが、苦しみを全部避けていたら、余計しんどい人生になってしまいます。
一方で無意識で自分で苦しみを作ってしまう人もいます。
「苦しまないと成長はない」と考えて、あえて苦しい場面に飛び込むようなことを無意識的にやってしまうことがあります。
必要な苦しみと無駄な苦しみについて、心の成熟という視点から、私の考えを書いていきます。
区別する力
境界線を引くことは、自分の領域と他人の領域を区別することですが、境界線を学んでいくと、区別する力が養われていきます。
この「区別する力」というのは生きる上でとても大切な力だと私は思っています。
中庸には区別する力が必要
前回のブログで、アリストテレスの中庸という概念を紹介しましたが、ある要素が過剰、または過少であるときに問題が生じます。
ある対立する要素があって、その要素をうまく使っていくことが求められます。
たとえば、「合理」と「感情」という二つの反する要素を例にします。
このとき、どの場面で「合理」を使えばよいのか、どの場面で「感情」を使えばよいのかをきちんと理解できていないと、中庸に持っていけません。
「区別する力」はそこの理解があって生じます。
ごちゃ混ぜと統合の区別
その理解があったうえで、合理と感情をセットにした「統合」が使えるようになります。
自分の感情を大切にしながら、合理的思考を使って、意思決定していくことができます。
これは感情と合理を統合して、一段高いレベルで活用している状態です。
その境地に至る前に、どの場面で感情を使ったらよいのか、合理を使ったらよいのかというのが分かっていない状態であれば、感情と合理がごちゃ混ぜになって、後になって「なんであんな判断をしたんだろう」と後悔するような意思決定になってしまいかねません。
「ごちゃ混ぜ」と「統合」はまったく別のレベルであり、ごちゃまぜは、区別以前のレベルで、統合は、区別を超えたレベルです。
「まずはきちんと区別できるようになっていこう!」
というのが私の考えです。
別の言い方をすれば「境界線をきちんと引けるようになっていこう!」ということです。
区別力をつける方法
たとえば、感情は性質ごとに区別され、その一つが怒りという感情です。
怒りはポジティブ感情とネガティブ感情に区別する場合、ネガティブ感情に属しますが、これだと単純な善悪判断になってしまいます。
区別力をつけるには、そこからもう一段階進んだ区別が必要です。
たとえば、怒りをすべて「まずいもの」と捉えるのではなく、「必要な怒り」と「不要な怒り」に区別します。
怒り以外でも、「悲しみ」や「恐れ」や「不安」や「後悔」や「自己嫌悪」といった感情でも同じです。
それができると、単純な善悪から、一つ複雑な善悪になります。
これが、心の成長を促します。
これができることは、心の成熟度を表す一つの指標だと私は考えています。
心の成熟がもたらす弊害
もっと区別ができる人は、そこからさらにもう一段階の区別ができるようになります。
一つのものが二つの区別ができ、そこからさらに区別すると四つの区別となり、さらに区別すると八つの区別になり…というようにどんどんパターンが増えていきます。
そうなると「怒りはよくない」といった単純な善悪では考えなくなりますが、同時に善悪が分からなくなってくる作用があります。
善悪が分からなくなることにもメリットとデメリットがあり、デメリットは判断が分からなくなって、行動ができなくなってしまうことです。
これは自信喪失にもなっていくため、一見退化したような感じになります。
自分の自信となるような根拠が崩壊していくため、どんどん弱くなり、決断もできなくなります。
自分のやってきたことが間違っているのではないかとも感じるでしょう。
成長することで、望んでいる状態とは全く違う方向に行ったため、成長を目指すことがよいことであると思えなくなります。
「成長=善」という価値観も崩壊します。
だんだん自分がしがみつけるものがなくなっていくと、不安定になるわけですが、だからと言ってそれが単純な善悪で測れるわけではありません。
それも成長のプロセスと言え、外側の何かによって自身の安定を得ていた段階から、内なる本質的なものに安定を得る段階へシフトしていくプロセスでもあります。
必要な苦しみ
善悪が分からなくなる苦しみから、何か別の善にしがみついて楽になることは、成長という視点から見ると停滞につながります。
このケースではきちんと苦しみに向き合って消化することで成長につながります。
この悩みや葛藤による苦しみは、ある意味「必要な苦しみ」と言えます。
これを避けると成長はないため、きちんと向き合って試行錯誤しながら解決するしかありません。
頭を使って合理的思考で考えることも必要ですし(高いレベルの思考力が求められます)、ハートに従って自分の気持ちを大切にすることも必要です(高いレベルの感受性や自己理解力が求められます)。
無駄な苦しみ
ここで区別したいのが、無駄な苦しみです。
そこでもがき苦しんでも全く意味がないような苦しみで、早く抜け出すに越したことがないものです。
停滞の苦しみはそうですね。
たとえば、「勉強しなきゃ」と思いながら、勉強をせずにスマホを見ているとしましょう。
この状態って苦しいです。
でも、この状態のまま、ずっとそのままスマホを見ていても解決するどころか、勉強する時間が減って余計しんどくなります。
停滞というのはこういうイメージです。
ギャンブルとか中毒とかは分かりやすい例だと思います。
こういった苦しみの状態にいる人は、とにかく少しでも早く抜け出したほうがよくて、この苦しみをセラピーしても何の意味もないどころか、むしろ痛みを麻痺させる毒になりかねません。
合理・思考を使う
勉強の例で言えば、スマホを見るのを止めて勉強するしかないのですが、それ以外の解決法を探ろうとすることそのものが無駄にしかなりません。
無駄を止められない苦しみって、しんどいです。
これは無駄だと理解して、早く抜け出さないと時間が経つほどますます大変になります。
でも、もっと高い視点から見れば、その「無駄」も無駄じゃなく、無駄なものなどないと言えるのですが、それでも、そこの苦しみは早く抜け出すに越したことがないと私は感じています。
この記事で「無駄な苦しみ」と「意味のある苦しみ」の区別をしましたが、苦しみの先に前向きな希望が持てるようなものや自分が必要だと思っている成長につながるようなものは「意味のある苦しみ」だと思います。その苦しみから逃げないほうがよいと思います。
一方、苦しみを感じたところで前向きな希望が持てるどころか、むしろ人生が悪化しかねないことは「無駄な苦しみ」だと思います。
無駄な苦しみに関しては、しっかり「合理」を使って、「これは意味がないことだから止めよう!」と意思決定して、一時的な快楽が得られるとしても止めるということが大切だと思います。
意志でコントロールできないことは「思考」を使って、工夫して、止められるような仕組みを作ることが必要でしょう。
先のスマホの例であれば、極端な行動であれば、スマホ断ちになりますが、そうなるとデメリットも大きいので、スマホの時間を制限するとか、見る時間帯を制限するとか、一定期間はアプリを消すとか、まずはルールを決めてみるのがよいでしょう。