「私たちは無条件で価値がある」
心からそう思えれば、どんなにか素晴らしいことだろうと思います。
刷り込みによって無条件に価値を認められない私たち
でも、なかなかそう思えるのは難しいです。
世の中自体がそんな価値観ではありません。
「何かにならないと」価値がない
「何かをしていると」価値がない
そんなふうに刷り込まれています。
世間でのいろんな意味での勝ち組の人は何やら価値がある人のように感じてしまいます。
それに比べて私は…と、自己卑下してしまいます。
本当は、何もしなくても、何かにならなくても、何をしたとしても、価値がある存在です。
でも、そうじゃないと思い込んでいます。
そういうふうに刷り込まれているというか、洗脳されているというか…
「そのままではダメだ」
この思い込みはとても強固です。
いくらいい本を読んだり、いいお話を聴いたとしても、そう簡単には外れません。
それでも、ちょっとくらいひびを入れたいと思い、このブログを書いています。
「人の役に立たなければいけない」という思い込み
たとえば、「人の役に立たなければいけない」と思っている人がいます。
今の私は人の役に立てていないからダメだと思っています。
まず、前提として人の役に立たなくても何の問題もありません。
さらに、人の役に立たないということは実はとても難しい…というより実は不可能です。
例えば、お医者さんは病気の治療をするので人の役に立つことが分かりやすい職業です。
じゃあ、病気をしている人はどうでしょう。
人に迷惑をかけている存在ですか?
少なくとも、お医者さんには役に立っているんじゃないでしょうか?
病気をしている人がいないと、お医者さんは成り立ちません。
屁理屈に聞こえるかもしれませんね。
でも、実際そうなんです。
すべては単なる役割であり、単なる解釈にすぎない
単なる役割に過ぎません。
そして、その役割に「色」はありません。
色を付けているのが私たちの解釈です。
強者と弱者がいて、強者によいという色を付けています。
弱者に悪いという色を付けています。
会社組織の例
例えば、会社組織。
社長は一番偉くて、平社員は一番下という思い込みが蔓延しています。
でも、それは単なる役割に過ぎません。
その役割と、その人の価値とは別なはずです。
社長は全員価値が高いのでしょうか?
ある意味価値が高いから社長になっているのですが、それはお金を稼ぐという目的の中で価値が高いということであって、人間的価値の高さとは全く関係ありません。
役割とか、行為、地位、職業、容姿、資質、収入、特技などは、その人を表すものではありますが、本質的価値とは別物です。
価値を測っている物差しについて
ある特定の物差しで測れば、価値があるといえますが、その物差しって絶対じゃないんです。
例えば、容姿の物差しだって、人によって好みが違います。
本質的価値を、誰かの物差しで測って、「私はダメだ」と決めつけているだけです。
本質的価値を、自分の物差しで測ってみてください。
この物差しの基準が高いほど、完璧主義な人ですね。
そして、その基準についてよーく見つめていってください。
実はものすごくあやふやなものです。
昔は遅刻を許せなかったけど、今はあまり気にならなくなったとか、基準は変わるものです。
基準が緩いと、相対的に価値は高くなります。
だから基準を緩めることはとても大事です。
本質的価値を物差しで測ることへの疑問
でも、それよりも今お伝えしたいのは、「本質的価値ってそんなあやふやな物差しで測れるものなの?」と問いです。
問うことが大事です。
実際に真剣に問わないと何も変わらないと思います。
真剣に問うと何らかの揺らぎが出るかもしれません。
それは大きな一歩になります。
問いの答えは、いろんな意見があると思います。
ボクは、本質的価値は物差しでは測れないものじゃないかと思っています。
測ることなんて不可能だから、価値は勝手に決めてもいいし、根拠なく価値を認めてもいいと思います。
わざわざ価値を低くして、自分を苦しめることをしなくてもいいと思います。
その物差しは誰のもの?
もし、自分の価値を自分で貶めているとしたら、ある物差しで自己評価しているにすぎません。
「その物差しは本当にあなたの物差しですか?」
「その物差しはあなたが生まれつき持っていたものでしょうか?」
そうでなければ、誰かから刷り込まれた物差しです。
そういうのを一切合財放り投げて、自分で自分の価値を高く評価してみてください。
はじめは、評価する「フリ」で構いません。
そうふるまう練習をしてみてください。
ちょっとずつの積み重ねで、いつの間にか前よりも自分を高く評価していることに気づくでしょう。
よっし~さん…おはようございます。ちょっとだけお久しぶりです(^-^)
そうですね。僕たちは「そのままで価値のある」生き物だと思います。
今ならそれが理解できます。昔は違いましたが…
昔は幸せになることが怖かったですね。幸せになることに、自分で自分自身のどこかで制限していました。
そのくせ、僕も以前のよっし~さんのように根拠のない自信があったんです(笑)
自分は幅広い意味で、将来はビッグになる人間だと…(笑)
でも、そう思いながら、自分でブレーキをかけている自分に気づき、今では良い意味で「完璧」な自分を堪能しています(笑)
この絶妙なバランスが保たれている、「完全なる愛の世界」において、不完全な人間が誕生するわけはありませんよね。
そのままで完全、完璧な自分であるはずなのに、長年の刷り込みによる愛との分離感は強敵です。
人間とは不思議なものです。
動物や植物などは、誰も?周りや自身の何かと比べることをせず、ただそこに実体として在る、生きることをしていますよね。
人間は、この地球(大自然)から教わることは多いはずです。そんな僕もその1人です。
隆司
隆司さん、お久しぶりです!
いつもコメントありがとうございます。
そのままで価値がある生き物であることが理解できるのはとても素晴らしいです!
いろいろな経験や学びをされてこられたのですね。
心から尊敬いたします。
「将来はビッグになる人間だ…」という根拠のない自信…
はい、ボクと似てますね(笑)
ホント、長年の刷り込みと愛との分離感はすごいです。
ある意味それも奇跡(笑)
隆司さんがおっしゃるように、地球・自然から教わることが多いですね。
素敵なコメントありがとうございました。
よっし~(西川佳宏)