忖度について
この記事では忖度(そんたく)について、その弊害や原因、対策法を簡単にまとめました。
他者の顔色を伺って自分の欲求を抑圧して苦しんでいる人は、いわゆる「忖度の達人」になっていますが、そういう人たちが楽になれるヒントになればと思って書いています。
忖度の定義
まず、忖度とは何でしょうか?
忖度とは「相手の指示がない状態で、相手が求めているであろうことを推測して満たそうとすること」です。
「察する」とか「空気を読む」とか「気配りをする」というようなことが求められます。
忖度のメリット
忖度にはメリットがあります。
忖度そのもののメリットとして、いちいち言語化する必要がないので、効率化できます。
「阿吽の呼吸」という言葉がありますが、お互いがお互いの状態を察することができれば、言葉を交わさなくても分かり合えるため、一瞬を争うようなときは役に立ちます。
また、言葉で言いにくいこともあります。
たとえば、子どもが片づけをせず、注意したとします。
毎回注意するのは、注意するほうも大変です。正直、何度も言いたくないと思います。
その場合、察してもらって、忖度してもらえれば楽です。
忖度される側のメリットとしては「言わなくても分かってくれるので楽」「気が利いていて優しさを感じる」などがあります。
忖度する側のメリットとしては「相手に喜ばれる」「相手に役に立てる」などがあります。
忖度の弊害
忖度には弊害があります。
特に日本では忖度する側の弊害が大きくなっています。
忖度する側の弊害に絞って紹介します。
忖度する側の弊害を簡単に言えば、相手に振り回されて自分を失う恐れがあるということです。
相手の権力が強くて、かつコントロール欲求が強ければ、相手の言いなりになってしまいます。
親や上司が典型例です。
親や上司が、子どもや部下の尊厳を尊重する人であれば問題ありません。
しかし、親や上司が境界線が引けない人(自分と他人の領域の区別が適切につかない人)であれば、子どもや部下は大きく振り回されることになります。
境界線が引けていないと、子どもや部下を「自分の一部」として扱うため、親や上司の欲求を満たすために子どもや部下を使うことになります。
子どもや部下は、親や上司の欲求を満たすために忖度し続けることになります。
親や上司が威圧的であれば、子どもや部下は欲求を聞くのが恐くて、顔色ばかり伺うようになります。
親や上司の欲求が単純で分かりやすければ、子どもや部下は忖度しやすいのでまだ楽です。
しかし、親や上司が気分次第で求めることを変えていたとしたら、子どもや部下は混乱します。
相当高いレベルの忖度能力が求められます。
そうやって相手に振り回されることで生じる苦しみが弊害の一つです。
その結果「自分がどうしたいか」という自分の欲求が分からなくなります。
そもそも、自分の欲求を満たすことを考える余裕がないからです。
結果、自分の思いや気持ちや本心がどんどん分からなくなって「自分のやりたいことが分からない」となるのが、弊害の二つ目です。
三つ目の弊害が、自分の欲求が抑圧されて、抑圧された欲求が暴走し、それが人生に大きな悪影響を与えるということです。
よくある例ですが、忖度し続けている人は、自分が欲しいものを自己主張できません。親や上司に寄り添っている一方ですが、同時に、自分もそれ(忖度や寄り添い)を求めているのです。
親や上司に認めてもらいたいのです。
忖度してもらいたいのです。
自分の気持ちや本心を(自分が言わなくても)分かってほしいのです。
当然、相手は分かってくれませんから、承認欲求がたまります。
その承認欲求が過度にたまると暴走を始めます。
- 相手に振り回されることで生じる苦しみ
- 自分のやりたいこと(欲求)が分からなくなる苦しみ
- 抑圧された欲求が暴走して人生に悪影響を及ぼした結果の苦しみ
承認欲求の暴走
承認欲求の暴走とは「分かってほしい」というのが歪な形で出ることです。
歪な形の典型例が自分を弱者にするものです。
弱者でいれば分かってもらいやすいです。
しかし、それは自分の首を絞めることになりますから、だから「歪な形」なのです。
本来は、ストレートに承認欲求を満たせばよいのですが、承認欲求が満たせず、たまってしまっているため、出さざるを得なくなり、ストレートではない形で承認欲求を出すことになります。
しかし、それは極めて分かりにくいので、たいてい承認欲求を満たすことはできません。
たとえば、マウンティングを取るのも、歪んだ承認欲求の出方になります。「私のすごさ」を自分でアピールしているわけですから。
しかし、そういう人が承認欲求を満たせるかというとそうではありません。
短期的には満たせるかもしれません。
周りが「すごいですね」と言わないと不機嫌になるような人であれば、周りはそう言うでしょう。
すると、その場では承認欲求が満たされて気分がよくなります。
しかし、そういう人はめんどくさがられて避けられるようになります。
結果、長期的には承認欲求は満たされません。
自分の周りから人がどんどん離れていくことになります。
この状態が「抑圧された欲求が暴走して人生に悪影響を及ぼした結果の苦しみ」となります。
忖度そのものが悪いわけではない
今の日本では忖度の弊害が目立っている状況です。
注意点ですが、忖度そのものがダメなわけではありません。
忖度を止める必要があるわけではありません。
忖度するのはよいのですが、自分の欲求を押し殺してまでやる必要はありません。
自分の欲求よりも忖度を優先してしまうと、忖度の弊害(自分を失う、抑圧した欲求が暴走する)が出てくることになります。
なぜ自己犠牲忖度をしてしまうのか?
なぜ自分の欲求を押し殺してまで、相手の欲求を叶えようとする忖度(自己犠牲忖度)をするのでしょうか?
忖度する側もメリットがあります。
大きく2つ。
一つは大きな恐れの回避です。
いじめが典型的な例です。
クラスのボスがいて、ボスの機嫌を損ねると、クラス中がボスを忖度して、いじめをするとしましょう。
その場合、いじめられる側は、存在価値をボロボロに傷つけられます。
それが恐いため、ボスを忖度するようになります。
もう一つが愛が欲しいからです。
親子愛が典型例です。
子どもは親からの愛を最も欲しています。
親から愛が欲しくて、親の欲求を叶えようとします。
親が実際に子どもに要求するわけではありません。
子どもが親の欲求を察して、先回りして親の欲求を叶えようとするのです。
親が喜ぶことで褒めてもらうことを子どもは求めています。
幼少期の機能不全があると、親を投影した人(夫、妻、上司など)に、親から得られなかった愛をもらおうとする欲求が強くなります。
それが、自己犠牲してまで忖度する理由になります。
- 大きな恐れを回避したいから
- 愛(承認など)が欲しいから
忖度をする側の対処法
忖度をする側は、その弊害によって苦しんだ度合いが強いほど、忖度そのものを憎むことになります。
結果、まったく忖度をしないということになりがちです。
そうなると「超自分勝手」になりますので、当然、周りから嫌われることになります。
そのため、白黒にならないように注意してください。
再度書きますが、忖度そのものが悪いわけではないのです。
自己犠牲までして忖度する必要がないということです。
さんざん忖度してきた人は、自分の欲求が分からなくなっているので、まず自分の欲求を理解することが必要です。
少なくとも「承認欲求」はかなり大きいはずなので、それを意識化します。
そして、その承認欲求を適切で効果的なやり方で満たしていけばよいのです。
承認欲求が満たされると、自己犠牲してまで相手の欲求を先回りして満たしてあげようとは思わなくなるはずです。
もう一つ大切なことは、忖度すればするほど、相手は「自分で欲求を伝える力」を失っていくことです。
これは当たり前ですよね。
自分が忖度される側だとして、何も言わなくても欲しいものが得られるような状態であれば、いちいち言いません。
それが続くと、欲しいものを伝える力がどんどん衰えていきます。
それは、逆も然りで、忖度する側は、自分の欲しいものを伝えることを我慢しているので、欲しいものを伝える力は身につきません。
むしろ、自分が「察して」いるわけですから、相手にも「察してもらう」ことを求めます。
だから、あえて言いたくないのです。
行き過ぎた忖度は、自分にとってだけではなく相手にとっても「力を奪う」ことになることを理解しておきましょう。
そして、自分が欲しいものをきちんと相手に伝えることが求められるため、その力を少しずつ身につけていくことが大切です。
- 自分が欲しいものを理解する
- 自分が欲しいものをうまく相手に伝える力を身につける
忖度をしてもらう側の対処法
この記事は忖度する側に焦点を当てたものですが、忖度される側の対処法も簡単に書いておきます。
いわゆる権力側の方の立場です。
忖度されるほうは、弊害よりもメリットが大きいため、そもそもこの状態を変えようとは思わないはずです。
そのため、悩みにならないため、忖度される側が「自分を変えたい」とは思わないでしょう。
それでも自分を変えたいと思ったときの参考です。
たとえば、会社の経営者の場合、忖度が行き過ぎると、従業員が不正をしてまで業績をよくしようとします。
経営者に迷惑が掛からないように忖度して「勝手に」やるのです。
それは経営者も従業員も結果的に自分の首を絞めることになります。
行き過ぎた忖度は是正する必要があります。
そもそも、相手をコントロールする欲求が少なければ、忖度を利用しようとしないはずです。
相手をコントロールしたい欲求が少なからずあるため、その手段として忖度を利用しているのです。
この「相手をコントロールしたい欲求」が暴走しているほど、忖度の弊害が大きくなります。
そのため、忖度される側は「相手をコントロールしたい欲求」を適切にコントロールすることが求められます。
他者信頼(他者を信頼できない根源は自己信頼の欠如から生じる)がキーワードになるでしょう。
忖度を美徳とする時代の終焉
忖度が「気づかい」「思いやり」として美徳とされる日本の文化がありますが、時代が変わったため、今は弊害が目立つ状態です。
社会のコントロールを必要とする社会では、権力のピラミッド構造が効果的に働きました。
たとえば、資源が少ない時代では、資源をうまく分配する必要があります。そのため、コントロールが必要になります。
忖度とはコントロールを効率的に行うものとも言えます。
言葉に出しづらいことでも、忖度してくれる文化があれば、勝手にやってくれるわけですから。
しかし、近代社会になってからは少なくとも日本では資源はかなりの部分満たされています。
社会をコントロールする必要性が減ってきているわけです。
管理社会から自律性社会への移行が進んでいる時代では、忖度はむしろその移行の妨げになっています。
そのため、忖度の弊害が「今」膿み出しとして出ているとも考えられます。
「気づかい」や「思いやり」は今後も大切ですが、忖度、つまり相手の指示がない状態で、相手が求めているであろうことを推測して満たそうとすることが美徳となる時代は終わりを迎えつつあると思います。
忖度についての本の紹介
精神科医の片田珠美さんの良著です。
忖度についてもっと学びたい方はご一読を。