皆それぞれ、多かれ少なかれ自分の嫌なところがあります。
特にネガティブなものを嫌います。
たとえば、肉体的コンプレックス。顔や身長、体型などですね。
あとは、性格。ネガティブ思考もそうですし、おとなしいところ、弱いところや根気がないところ、率直に言いすぎてしまうところや逆にNoが言えず、人に合わせてしまうところなど。
他にも、能力もそうですね。頭のよさ、音楽の才能、運動神経、アートセンス、ファッションセンス、会話力、スピーチ力、筋力などいろいろあります。
あとは、自分の中に湧いてくる思考もそうでしょう。相手を憎む思いや復讐心、ネガティブな思考がとめどなく続くところなど。
そんなネガティブなところに悩まされるので、苦しいですね。
だから、その苦しみを取るために、ネガティブなところを克服しようとします。
克服できれば一時的に苦しみは解放されますから。
ここが罠で、一見正しいように見えるやり方ですが、苦しみの長期的な解放にはつながらないのです。
なぜなら、この方法は対処療法で、根本的な問題の解決には何もなっていないからです。
「ネガティブなものがある=苦しみ」
この式を信じてしまうと、苦しいんです。
だって、ネガティブなものを克服することは不可能ですから。
ネガティブなものを克服することは可能だと思っていますよね。
でも、仮に「ネガティブなものを克服できない」ことが真実だと仮定してください。
そうすると、ネガティブなものを克服できないのに、克服しようとする努力や気持ち自体が苦しみになりませんか?
なりますよね。
では、「ネガティブなものを克服できない」というのはどういう根拠かを説明します。
ポジティブとネガティブは私たちが個人的に勝手に決めつけたもので、絶対的な基準なんてありません。
だから、実はすごくあやふやなんです。単なるレッテルです。勝手にそういった基準を作ってそのメガネで見ているだけです。
たとえば、「空が青いこと」をポジティブだとします。「空が赤いこと」をネガティブだとします。
夕焼けを拒否して、晴天だけを望むんですね。それって可能ですか?
あえておかしな例を出しましたが、一見正しいと思えることだって同じです。
キムタクの容姿はかっこいい、でもオレの容姿はブサイク…。これだって単なるレッテルです。
容姿なんて人それぞれ好みが違いますよね。
もちろん、相対的なものはあります。普通であればいい。そう思うかもしれません。
でも、これもどこまで行っても満足できないんですよ。学校の成績でも、スポーツでも何でもいいです。50名中40位で、真ん中の25位を目指して、25位になったとしましょう。それでOKになるでしょうか???
キリがないんですね。仮にそこで満足したとしても、今度は別の足りないものを見つけてそれに不満を抱きます。
ネガティブなものを克服できるような気がするのが、それが最大の落とし穴で、実はネガティブなものを克服することができないと知ることこそ、苦しみから脱却できる方法なのです。
「ネガティブなものを克服できない」というのが真実であれば、どうすればよいでしょうか?
ネガティブなものとうまく付き合っていくことを日々実践していくしかないんです。
受け入れてあげるのが一番いいですが、なかなか難しいのも確かです。
ちなみにこれは宣伝ですが、セッションだと早く受け入れられます。たとえば、容姿が受け入れられない場合、過去に容姿のことで傷ついた記憶を探り、そこを癒してあげれば、容姿が気にならなくなります。
まあ、でも一般的には難しいですよね。ボクもコンプレックスの宝庫でしたからよく分かりますよ。
克服できないのなら、仕方ないものとして少しずつ受け入れていくしかありません。
肉体的コンプレックス、性格、能力、思考…、そうなんだから仕方ない。
あるんだから仕方ない。
克服できないんだから仕方ない。
克服しようとするとき、嫌なところをすごく抑圧しちゃうんですね。だからかえってパワーが増してしまいます。
克服するんじゃなくて、受け入れてあげる。
そうすると、何も変わらなくても気にならなくなる。
「ネガティブなものがある=苦しみ」という式にはならないんです。
自分の中のネガティブと苦しみとは別であることが分かります。
人生の中でいいこと嫌なことがあるのはしょうがないですよ。
だって、そういうものだもん。
いいことを最大化させる方法を取ろうとするのが、いわゆるこれまでの成功法則。賢者と呼ばれる自己啓発界のスターたちが言ってきたやり方。
でも、ボクはそうは思わない。嫌なことにうまく付き合っていく方法を身につけるほうがよっぽどスマート。
「私の肉体(性格、能力、思考)はこうあるべきだ」「私の人生はこうあるべきだ」って思いますよね。
でも、実はそれが苦しみを生んでるんですよ。
少しずつ、「べき」を取っていきませんか?
お手伝いします。