前回の続きです。
今回はこの3つを扱います。
当たり前ビリーフ(ルール、価値観)
「悪口を言ってはいけない」
「愚痴を言ってはいけない」
③「公平に扱わないといけない」
「人を支配してはいけない」
④「相手を傷つけてはいけない」
「いじめてはいけない」
「暴力を振るってはいけない」
「相手を冷たくしてはいけない」
「自分が嫌がることを人にしてはならない」
「人を嫌ってはいけない」
「愚痴を言ってはいけない」
誰かを嫌っている状態のとき、あまりいい気持ちではありません。
嫌わないで済むなら、自分も世界も平和になります。
なので、人を嫌わないようにすることを目指します。
人を嫌わないことが自然にできればいいですが、嫌いなのを我慢するので苦しくなります。
嫌いな人がいない人なんているのでしょうか?
私はそんな人は知りませんし、いないと思いますよ。
一時的にそんな時期はあるかもしれませんし、人間関係の接触が少ない人はそうかもしれませんが、たまたま今は嫌な人が周りにいないだけのことです。
投影の仕組みを知ると、自分の嫌いな要素を相手に投影していることが分かります。
なので、自分の嫌いな要素がなくなれば、相手を許せる度合いが高くなり、嫌いな人がいなくなるでしょう。
癒しは結果的にそこに向かうのですが、嫌いな要素がまったくないというのも極端な話で、それも不自然です。
完璧に癒された自分などファンタジーに過ぎません。
自分を癒していき、嫌いな要素を受け入れることがだんだんできるようになると、それを投影することが緩くなるので、嫌いな人は減っていくのは事実です。
でも、本当は嫌っているのに、嫌わないようにしようとするのは、かえって苦しくなるだけです。
そういう意味では「人を嫌うこと」を許してあげたほうが楽ちんです。
「悪口を言ってはいけない」や「愚痴を言ってはいけない」というのも同じく不自然です。
傷ついたとき、嫌な目に遭ったときは、つい悪口や愚痴を言いたくなるものです。
悪口や愚痴を禁じてしまうと、怒りの感情自体を押さえようとしてしまいます。
怒りがあるのに、発散ができないと困るからです。
抑圧するとかえって苦しくなります。
悪口や愚痴を言ってしまうのも自然なことです。
ただ、それが行き過ぎてしまうと不自然になります。
自分の傷や恐れに触れられたくなくて、相手に怒りを向けて、その手段の一つが愚痴や悪口となるわけですが、愚痴や悪口ばかりということはそれだけ怒りが溜まっていることになります。
原因である自分の内面の傷、恐れ、抑圧しているものに目を向けていった方がよいでしょう。
そこが癒されると自然に悪口や愚痴を言わなくても済むようになります。
「公平に扱わないといけない」
公平、平等、対等。
私たちはこれらを大切だと教えられました。
不公平があると嫌ですね。
特にとばっちりを受ける方は嫌な気持ちになります。
兄弟でお菓子が2個あったとして、1個1個分けるのが一般的な美徳でしょう。
お兄ちゃんが年上だから2個全部食べたり、弟が小さいのだから2個全部食べたりするのは公平だと言えません。
ここで問題なのが「その人にとって公平の定義が違う」ということです。
世の中には価値感、尺度はたくさんあるので、尺度が違えば公平の定義が変わります。
お菓子を1個ずつ分けるのは、身体の大きさが違うのだから不公平だとお兄ちゃんは思うかもしれません。
育ちざかりの弟のほうが食欲は多いのだから1個ずつは不公平だと弟は思うかもしれません。
公平の定義が人によって異なる以上、公平はありえません。
また、定義うんぬんにかかわらず、明らかに不公平なことは世の中にたくさんあります。
公平、平等、対等という概念をあまりに重んじすぎると、そうじゃない状況に対して不満が生じます。
「公平、平等、対等」にこだわりすぎるのもまた「不自然」なのです。
行き過ぎた不平等はまたそれも「不自然」ですが、対等ではない関係が自然な状態もたくさんあります。
たとえば、親子。
親子は明らかに対等ではありません。
子どもが小さいうちは親に育ててもらっていなければ生活できません。
親子関係に対等を求めると不自然になります。
上司と部下も同じです。
対等ではありません。権限・責任が違います。
その方が組織として効率的であるから役職が設けられています。
上司と部下が対等なのは不自然です。
但し、仕事外で上司が部下に仕事と同じ状況を持ち出すのは不自然です。あくまで上下関係があるのは仕事内です。
師匠と弟子、先生と生徒も同じです。
対等ではないことが自然な関係です。
本来は平等であるのが自然な状況に、不平等が持ち込まれている状況がたくさんあるため、平等であることが重要視されますが、行き過ぎて平等が当たり前になると、「常に」平等であることを求めてしまいます。
友人関係やパートナーシップなど、本来対等であることが自然な人間関係であっても、一時的にどちらかが上でどちらかが下になるのは自然なことです。
上下という言葉に違和感がある人は、自立と依存という言葉に置き換えてもらっても構いません。
不自然なのは、その関係が固定してしまっていることです。
その関係がフレキシブルに変化できるのが自然です。
「相手を傷つけてはいけない」
「暴力を振るってはいけない」
「相手を冷たくしてはいけない」
「自分が嫌がることを人にしてはならない」
「人を傷つけてはいけない」というのは、多くの人が共通して持っている価値感でしょう。
「いじめてはいけない」とか「暴力を振るってはいけない」とか「相手を冷たくしてはいけない」というのも類似の価値観です。
私たちは傷つくのはとてもつらいことですから、相手にも傷つけてはいけないと思うのは自然なことです。
それが大事な価値観であることに疑いません。
ですが、私たちは同時に人を傷つけないではいられない存在であることも事実です。
私たちが傷つくポイントは人によって違います。
資質や育った環境、受けた心の傷によって、気になるポイントは異なります。
そのため、自分の価値観ではOKなことでも、相手の価値観では×なことはあります。
傷つけるつもりはなかったのに傷つけてしまうということは当たり前に生じます。
また、自分が傷つけられたとき、誰かに当たってしまうということも自然に起こることです。
傷が強すぎると、極端な行動、暴力とかいじめ行為になってしまいますが、冷たくしたり、相手に攻撃したい気持ちは自然に起こります。
嫌なことをされて、笑顔でいたり、平気でいるのは「不自然」です。
当たり前に生じることにフタをすると、感情の抑圧になり、苦しみにつながります。
「いじめること」「暴力」を正当化しているわけではありません。
でも、人間ならそういった要素(暴力的なエネルギー)も備わっていることを許容できたとき、その要素にあるポジティブな側面にも気づくことができます。
相手を突き放す強さ、自分を守る強さ、自分が傷つくことへの強さも自然に見出していくでしょう。
そういう強さが出たとき、相手はその人をなめなくなるでしょう。
本当はあったにもかかわらず、抑圧してきたので見えなかっただけです。