境界線≠人と距離を取る
境界線(バウンダリー)というと「人と距離を取る」というようなイメージがあるかもしれません。
境界線が引けない人が境界線を引こうとするとどうしても極端な方法になりがちです。
- 人と距離を取る
- 人と会わなくなる
- 人と疎遠になる
- 引きこもる
- 会社や組織、集団から離れる
- 別れる
- 縁を切る
これは境界線を引くというよりも「境界線の引きすぎ」です。
これは適切に境界線が引けていないために起こるケースがよくあります。
人とつながりたい
人と積極的に関わる 境界線を越えられて苦しくなることが起こる ストレスが限界まで来る 距離を置く(引きすぎへ)孤独感の悩み
人とつながりたいニーズが大きい人は同時に孤独感の悩みを抱えがちです。
孤独感は人とつながっているときは感じにくくなります。
人とのつながりが切れてしまうと孤独感が急激に顔を出すようになります。
人とつながりたいのに、対人関係が恐いというジレンマに陥ります。
境界線を適切に引くことで心地よく人とつながれる
こういう人がどうすればよいかというと、境界線を適切に引けるようになることが効果が高いと感じています。
境界線が適切に引ければ、人とのつながりでトラブルやストレスを抱えにくくなります。
境界線を引くときと引かないときの区別ができると
また、境界線を引くときと引かないときの区別を適切にできるようになれば、思いっきりつながって楽しむこともできれば、適切な距離感で心地よく接することもできます。
境界線が適切に引けないと
人間関係の醍醐味は、距離を取っ払って共有や分かち合いをすることだと思います。
それができるのが仲のよい友達や恋人・夫婦でしょう。
但し、適切な境界線が引けないまま接すると、関係がよいときは非常によいのですが、何かをきっかけに一気に関係が悪化することがあります。人間関係を壊しやすく、トラブルを起こしやすいのです。
トラブルを頻繁に起こすと、今度は対人恐怖症気味になって、人と関わることがうまくできず、適切な距離感が分からずに距離を置きすぎてしまいます。
そうすると孤独感の問題が浮上します。
あるいは、特定の信頼できる人に極めて距離を縮めてきます。
そうなると相手は重く感じがちです。
特定の人への依存関係になると、その人に精神的に振り回されることになります。
境界線が適切に引ける人
境界線が適切に引ける人は、
- TPOに合わせて自分も相手も心地よい距離感で接することができる
- あえて距離を縮めて共有・一体感を楽しめる
- オンとオフの区別をハッキリできる
- 人間関係のトラブルを抱えにくい
- 境界線を越えてくる人に対しては適切に自分を守ることができる
- 境界線を越えられても精神的ダメージ(ストレス)が少ない
境界線がナチュラルに引ける人は、境界線のことを全く意識せずともこれらのことがうまくできています。
境界線を学ぶ大切さ
そういう人は特に境界線を学ぶ必要はありませんが、そういう人は少数派だと思います。
境界線が適切に引けていない人が大半の社会だと私自身は実感しています。
そうなるとその社会で育った子どもたちも境界線が適切に引けず、どこかの段階で、大人たちが境界線を学び、適切な境界線引きを身につけていく必要があると思っています。
境界線が適切に引けない人が大半の社会
その環境で育った親は境界線が適切に引けない
その親に育てられた子どもも境界線が適切に引けない
境界線越えが日常茶飯事で起こる社会へ
こういった現状からこうなるとよいなと思っています。
大人たちが境界線を身につける
子どもは自然に境界線を身につけられる
適切な境界線引きが当たり前の社会へ
境界線が適切に引ける人が大多数の社会であれば、誰もが自然に境界線が適切に引けるようになるでしょう。
境界線が適切に引ける社会
境界線が適切に引ける人が大半の社会は私たちの尊厳が守られる社会です。
- 差別や誹謗中傷がない社会
- 人間としての権利が守られる社会
- 人間の存在価値が尊重される社会
能力価値と存在価値が区別される社会
人は容姿や能力、資質、性格などの違いがあります。
その違いによって活かせることや得意不得意が生じますが、そのことは尊重されながらも、そこと人としての存在価値をきちんと区別される社会であればよいなと思っています。
制度だけではなく意識の変化が求められる
東京オリンピックの基本コンセプトは「多様性と調和」で世界的な時代の流れがそこに進んでいます。
とはいえ、制度やルールやスローガンだけを推し進めてもどこかで実態との乖離が出ます。
私たちが「多様性」を認め、尊重することではじめて「調和」が取れます。
多様性を認めないものを叩くとか、差別禁止のルールを作るとか、それも一つのステップですが、私たちの意識そのものを変えていく必要があるでしょう。
意識が変わらないのであれば、ただ「ルールだから守る」「罰を受けたくないから守る」「批判されたくないから守る」「攻撃されたくないから守る」「よいことだから守る」「守らなければいけないことだから守る」ということになり、どこかで差別意識が抑圧され、それが社会の闇として出現することになるでしょう。
制度を変えることも大事ですが、私は意識が変わらなければあまり意味がないと思っています。
今の社会は制度中心です。
もちろん、制度が整備されているのは望ましいことです。
既に憲法で人としての尊重は守られるように作られています。
そこに意識が追いついていけばよいですね。
自分らしさを活かせる社会へ
多様性を認め、尊重するというのは、境界線が適切に引けることであると私は理解しています。
他人の価値観を認められるには、自分の価値観と他の人の価値観を区別している必要があります。
そして、自分の価値観を大切にしながら、他の人が持つ価値観も尊重できるということです。
自分の価値観を相手に押し付けるのは「境界線越え」です。
また、社会や他人の価値観を盲目的に受け入れるのも「境界線越え(越えられている)」です。
境界線が適切に引けるようになると、自分と他人の区別がハッキリしてきます。
自分の特性や価値観や感性がより分かってきます。
それらを自分で活かすこと、あるいは、他人のそれらを活かしてあげるサポートをすることができるでしょう。
多くの人が「自分らしさ」を活かして、自分の価値観で自分の人生を主体的に創っていける社会は、とても幸福度が高い社会ではないかと想像します。