今回のテーマはハートです。
ここでのハートの定義は「心の底からの思いや感情、そしてそこから生じる欲求」とします。
2種類のハート
ここでハートを2つに区別します。
「欠乏感から生じるハート」と「性質的なものから生じるハート」です。
欠乏感から生じるハート
前者は、たとえば、しばらく何も食べずに過ごしたときは、食べたい欲求が最も高くなるでしょう。心の底からの思いや感情なので、それもハートです。
極限の空腹時に、にぎりめしを食べると、心の底から喜びに溢れるでしょう。
但し、一過性のものです。
性質的なものから生じるハート
性質的なものから生じるハートは、個人特有の欲求です。
一過性ではありません。
たとえば、全力を出し切ることがAさんのハートだとします。
対象は何でもよいので、自分の力を最大限発揮することがAさんの喜びで、そうではない環境がAさんのストレスになります。
逆に、Bさんはのんびりゆったり生きることがハートだとします。何もせずにゆったりして過ごすことが喜びです。
Bさんにとって、競争環境で生きることは大きなストレスになります。
この記事では後者のハート(性質的なものから生じるハート)を採り上げます。
ハートで生きるとは
ハートで生きるということは、自分の性質的(本質的)な欲求を満たすことを第一目的として生きるということです。
ハートで生きることは、わがままな生き方なのかという問いに対して、答えはイエスでもありノーでもあります。
「わがまま=自分勝手=人に迷惑を掛ける」という意味では、ノーです。イエスの人もいるでしょうが、ハートで生きることと人に迷惑を掛けることは別問題です。
境界線が引けるかどうかの問題です。
むしろ、ハートで生きている人のほうが境界線が引ける人が多いでしょう。自分のハートを大切にしている人は他者のハートも尊重できるでしょうから。
ハートで生きることが「わがまま=自分の利益を追求する」という意味では、イエスです。
自分の性質的な欲求を満たす=自己満足を目指す生き方ですから。
ハートが分からない問題
ハートを採り上げるとき、必ず出てくるのは「ハートが分からない」問題です。
一つのヒントになるのは、ハートが分からない人は、自分のハートが社会の価値観から外れている可能性があるということです。
たとえば、先の例で採り上げたAさんとBさんは、どちらのハートのほうが見つけるのが困難でしょうか?
Bさんです。
社会は努力を推奨しています。価値を高めることが社会成長の原動力です。
Aさんのハートは社会とマッチしているため、生きやすいです。
Aさんの悩みは「ハートが分からない」ではなく、全力を出しすぎて疲れてしまい、体調面などの悩みや、力を抜くことが苦手という悩みになるでしょう。
Bさんのハートは社会とマッチしていないので、生きにくいです。
学校でもがんばりが求められ、社会に出たら尚更それが求められ、社会で求められるとことと自分のハートのギャップで苦しみます。
がんばっていないと自責してしまい、ハートと「こうあるべき」の葛藤がストレスになります。
もし、こうあるべきという思いで苦しんでいる場合は、ハートは社会が求める価値観と対極にある可能性があることを意識すると、ハートが分かるかもしれません。
自己の個性をありのまま受け入れる
Bさんが自分のハートを認識し、ハートで生きると決意したら、いろいろな選択が取れます。
たとえば、まずはお金を稼ぐことを第一優先にして、早期引退してゆっくり過ごす生き方です。
但し、これは能力が優れていないと難しいです。
能力が伴わないと自覚している場合は、なるべくゆっくりできる仕事を探して、金銭面はあきらめる生き方もできます。
もっと能力が伴わない場合は、医療機関で障害認定を受けることも方法です。
生活保護を受けてゆっくり生きることもできます。
但し、社会(他者)からの批判を受ける可能性があるため、自分がそこを自責しないことが欠かせません。
自責があることに他責が加わると自責のエネルギーは強烈になります。
自責がないことに他責があってもそこまで苦しくありません。
例)「ゲームの成績が悪いのはダメ」と批判されても苦しくないはず
自責はしなくてよいことの理解
ハートで生きる人は、自責は不要であることの理解が欠かせません。
反省や改善は必要です。生き方、考え方、行動をよいものにするために改善する必要はありますが、そこに自責は不要です。
自責は自罰であり、自分を痛めつける行為です。
もし、他者に迷惑を掛けたとしたら、それを受け止め、行動を改善すべきですが、自分を痛めつける必要はまったくないのです。むしろ、改善の逆効果です。
自責は単に問題に向き合うことから逃げているだけだということを自覚する必要があるでしょう。
ハートで生きざるを得ない人
「ハートで生きる」というのはかっこよい言葉かもしれませんが、現実には「ハートで生きざるを得ない」というケースのほうが多いと思います。
社会や親が望むことや、一過性の欲求に従って生きていると、自分の性質的なハートとのギャップが大きいと、葛藤が生まれます。
のんびりしたい←→働かなければならない
多くの人はこのギャップによる葛藤が少ないので、普通に働けます。
しかし、このギャップが大きいとストレスは半端ないです。
ハートから来る欲求は抑えることができないんです。性質的に備わっているものですから。
但し、環境によって強弱現れます。心理的安全性が高い環境下では、負の影響が出にくくなります。
そのため、このギャップが大きい人は、ハートを優先せざるを得ないんです。
そうしないと、ストレスで心身がやられてしまいますから。
ハートが強い人ほど、ハートで生きるしか道がありません。
大変ですが、それを受け入れるしかないでしょう。
ハートは一つではない
ハートの問題で厄介なのは、人間は矛盾した相反する欲求を抱えている存在であることです。
たとえば、Bさんはのんびり生きたいという欲求を強く持ちながらも、同時に自分の力を発揮したいという欲求も持っています。
このときハート同士の葛藤という問題が生じます。
ここで大事なのは、私たちは相反する両方の性質を持っていることを認め、それを否定感なく受け入れることです。
それができれば、相反するハートを満たす方法を見つけることができます。
しかし、どちらかを否定していれば、必ず葛藤は生じます。
Bさんの場合、たとえば週の半分は自分の力を発揮する仕事をしながら、週の半分はのんびりするという生き方もできます。
あるいは、のんびりとした生き方がベースにありながら、自分の食事を作ることに自分の力を発揮しようとがんばることもできます。
どの手段でも目的(ハート)を満たせれば何だってよいのです。
目的をしっかり分かった上で、どういう生き方が自分にマッチするかを考えることができます。
自分のハートを理解するためには「私たちは相反するハートを抱えているものだ」ということを分かっておくとよいでしょう。
ハートは人生の目的
ハートは人生の目的になります。
目的が分からないと、人生の方向が分からなくなり、どこにエネルギーを発揮していいか分かりません。
闇雲にエネルギーを発揮しても、その道がハートかどうか分かりません。
そのため、まずはハートを理解することが大切です。
ここではハート探しのヒントを書きました。
ハートを見つけるには、自分の心(本音)を知るということにつきますが、それは社会から称賛されるようなことではないことのほうが多いと思います。
それでも性質的なものなので受け入れざるを得ないでしょう。
社会や親の価値観を横に置き、自責なく、ありのままを認める姿勢があれば、自分が心から望むものが何かは何となく浮かび上がってくるのではないでしょうか。
それが難しければ、自分がストレスを感じる状態の対極がハートかもしれません。
たとえば、不安がすごく強い人は、安心がハートでしょう。
そこから、どんな安心を得たいのか?どんな生き方が理想なのか?などを考えてみると、目的がハッキリしてくると思います。