前回の記事で真面目すぎる人が陥る罠について説明しました。
真面目すぎる人は人生に疲れてしまい、楽しんでいないことに、あるとき気づきます。
そこで、不真面目にあこがれるわけですが、では、真面目を捨てて不真面目になれば問題は解決するのでしょうか?
一方の極からもう一方の極へ行くのも成長プロセスの一つの段階です。それはそれで味わうといいでしょう。
最終的に楽になる境地は、どちらにもこだわらないようになれることです。真面目でも不真面目でもどっちでもいいじゃないか。ときには真面目にがんばり、ときには不真面目に遊び、ゆったりし、両方を楽しめるということです。
ボクは自分を癒していく過程で、本来の真面目な性格が幸いし、真剣に取り組みました。
知識の習得はかなりハイペースで行いました。月100冊の本を読み、それらの本の大事な個所をパソコンに打ち込み、さらにそれを覚えていくという作業をやっていき、かつ自分の内面を癒す作業も行っていきました。
EFT、ピクチャータッピング、フォーカシング、マトリックス・リインプリンティング、感謝、瞑想、アファメーション、思考観察をひたすらやりました。朝晩のアファメーション、フォーカシング、瞑想はノルマとして習慣化させ、感謝は一日1時間は行い、悩みやシャドウをEFTやマトリックス、ピクチャータッピングでワークするということをやっていました。
もちろんこれだけやれば癒しは進んでいきますが、思うような変容は起こりませんでした。
ボクは自分の枠を壊したかった。だから、必死になって壊そうと真面目にがんばった…。
でも、ボクはあるとき、ふと気がつきました。
「あぁ、オレは『真面目』という枠の中で必死にがんばっている。『がんばるべき』という枠の中でがんばっていた。これは、枠を壊すどころか、枠を強化していただけじゃないか…」
ボクにとってこの気づきこそ、とても大きな気づきでした。
それから、「真面目」、「がんばれない」という自分のシャドウを受け入れることにしました。
そして、「不真面目」、「がんばらない」という行動を実際に取っていきました。
その後は朝晩のアファメーション、フォーカシング、瞑想は止め、今もやっていません(笑)
あらゆる目標を捨てたのもこの時期でした。
シャドウを受け入れたとき、別の極が使えるようになるのです。
「真面目さ」を受け入れたとき、「不真面目さ」が使えるようになり、両方の価値を理解し、両方をケースバイケースで使えるようになります。価値観にとらわれることなく、素の自分でいられ、真面目にしたいときは自然に真面目に、枠を外して不真面目に楽しみたいときは、自然に枠を外すことができるようになります。真面目とか不真面目とか気にすることなく、ただありのままの自分がいて、結果的に使いこなせているという感じです。
その結果、ボクは生きることがとっても楽になりました。
次回は、「がんばること」から抜け出すことについて、もう少し説明します。