権利を持つ上で必要なこと
前回のブログで、日本では個人の権利が尊重されていないことを書きました。
この記事では、私たちが権利を持つ上で必要なことを書きます。
それは「責任」です。
権利にはたいていの場合、責任が伴います。
「たいていの場合」と書いたのは、幼児、未成年は、責任を取れる能力がないため、責任なき権利もあります。
赤ちゃんが食事を取る権利に責任などありません。
権利(責任)には責任(権利)が伴うことは考えてみれば当たり前のことなのですが、意外に多くの人が分かっていないように思われます。
仕事の権利と責任
たとえば、レジ打ちの仕事を考えてみましょう。レジを打つ権利(権限)があるから、責任が発生します。
レジ打ちのミスは、担当者の責任になります。
また、レジ打ちの仕事には報酬を得られる権利があります。
レジを打つ権利がないのに責任だけ負わされるのはおかしいです。
また、レジ打ちのやり方を教えてもらっていないのに、いきなり責任を負わされるのもおかしいです。
レジ打ちのやり方を教わる権利があります。
また、無報酬でレジ打ちの仕事をさせられる(責任だけ負わされる)のはおかしいです。
責任は権利を伴い、権利は責任を伴います。
表裏一体です。
個人が尊重される権利と責任
では、個人が尊重される権利の話に移ります。
私たちは、個人として尊重される権利があります。
この権利に対応する責任とは何でしょうか?
レジ打ちの例と同じです。
レジを打つ権利、レジ打ちのやり方を教わる権利、レジ打ちの報酬をもらう権利
レジを打つ仕事をする責任、レジを打った結果(成果、ミス、報酬など)の責任
個人として尊重される権利
個人を尊重する責任、個人を尊重した(しない)結果の責任
つまり、私たちが個人として尊重される権利には、私たちが個人(自分や他者)を尊重する責任が伴います。
責任なき権利はおかしい
責任がない権利はおかしいという話をしました。
たとえば、仕事の責任がまったくないのに1,000万円の報酬をもらう権利をどう思うでしょうか?
おかしいのです。成り立ちません。
憲法13条が成り立つ前提
私たちが個人を尊重する責任を果たすことが前提で、日本国憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される」というのが成り立ちます。
ところが、私たちは個人として尊重できるだけの状態ではありません。
そのため、憲法13条は理想像に過ぎません。
私自身は、憲法13条が理想像ではなく、実態を反映している社会であってほしいと願います。
そうであるならば、私たちが自分や他者を尊重するのは「当然の責任」であるという意識が必要だと思っています。
自分や他者を尊重するのは義務
ここでの責任は「義務」という言葉に置き換えることもできるでしょう。
私たちが自分や他者を尊重するのは「義務」なのです。
もし、あなたが自分のことを尊重していなければ、それは「無責任」であり、「義務違反」です。
このとき、当然ながら、あなたが他者から尊重される「権利」などありません。
責任と義務を果たすこと
あなたが他者から尊重されたいのであれば、自分自身を尊重する責任と義務を果たさなければなりません。
あなたが自分自身を尊重する責任と義務を果たしていないのに、他者から尊重されることを願っているとしたら、それは「働いていないのに年収1,000万を望んでいること」と同義だということを思い出しましょう。
ありのままの自分を認めてもらいたいなら
あなたが「ありのままの自分を認めてほしい」と思っているとしましょう。
その「権利」を得るための責任と義務は何でしょうか?
あなたがありのままの自分を認めることです。
それを果たしていますか?
あなたがありのままの自分を認めるという責任と義務を果たしていないのに、どうしてその権利が得られるでしょう?
あなたが自由に生きたいなら
あなたが「自由に生きたい」と思っているとしましょう。
その「権利」を得るための責任と義務は何でしょうか?
自由に生きたいのであれば、人生を自分で選択する責任を放棄しないことです。また、自分で選択した結果の責任を放棄しないことです。
自分で選択する責任を他者に委ねておきながら、自由に生きたいというのは成り立ちません。わがままというか戯言に過ぎません。
サッカーの練習をまったくしていないのに「オレはサッカー日本代表になる!」と言っているようなものです。
その権利を主張する前提条件がないのです。
自由に生きる権利は、人生を自分で選択する責任と、選択の結果の責任を取る人にのみ与えられるものです。
責任をコントロールする大切さ
人生の責任を全面的に負うというのは実際には難しいです。
自分がコントロールできないことはたくさんあるからです。
特に判断能力が欠けている未成年は責任が負えません。
未成年は、ある程度自由が制限されていることで守られています。
また、成人であっても判断能力が十分発達しているとは言えないでしょう。
やはり、ある程度、自由に生きる権利を制限せざるを得ません。
全面的に自由に生きるというのは実はかなり大変で、相応の能力を必要とします。
であるならば、自分がどこまで責任を取って、どこまで権利を得たいかを自分でコントロールする必要があると思います。
責任を取る・取らないの二者択一にしないこと
ゼロ百の白黒思考になると「責任を取る・取らない」の二者択一になるため、おかしくなります。
自分のキャパシティを考えた上で
責任を取ることは何か?
逆に、責任を手放すことは何か?
を明らかにしておくとよいでしょう。
これは特に仕事の場合、役に立つでしょう。
自分が取るべき責任と取らない責任を明らかにして、それを自分だけではなく、上長も理解しておくことが重要です。
権利と責任を明らかにする
権利に比して、責任が大きい場合は理不尽な契約になります。
逆に、責任に比して、権利が大きい場合も同様です。
理不尽な労働契約の場合、権利と責任を明らかにした上で、上長に掛け合って修正していくプロセスが必要になるでしょう。
権利には責任や義務が伴うというのは難しいことではなく、当たり前のことです。
しかし、私たちはそれをつい見逃しがちです。
個人として他者から尊重されたいのであれば、まず、自分が自分や他者を尊重する責任と義務を果たすことが欠かせないという当たり前のことを腑に落とすことが必要だと思います。