感性の違い
先日、スーパーでバニラヨーグルト3個パックを買いました。
ボクはバニラヨーグルトが大好物です♪
店員さんがレジ袋にヨーグルトを横向きの状態で入れました。
ボクはちょっと嫌だなと思って「ヨーグルトは上向きの状態で入れてくれるとうれしいです」と言って、自分で向きを変えました。
その話を他人にすると「ケーキだったら嫌だけど、ヨーグルトなら気にならない」と言っていました。
ボクは気になるので、感性の違いを感じました。
先の店員さんも気にならない感性なのでしょう。
つい忘れがちな感性の違い
「感性は人それぞれ違う」ということを、私たちは当たり前に分かっているようで、つい忘れてしまうものです。
そのため、自分の感性を相手に当てはめてしまって、境界線越えが起きてしまいます。
自分の感性で怒りを感じて、それを相手にぶつけてしまったり、自分の感性で同情を感じて、相手に手を差し伸べようとしたり、自分の感性で感動を感じて、それを相手と共有しようとしても共感してもらえず不満をぶつけたりします。
感情と行為の区別
ここで区別しておきたいことがあります。
自分の感性で期待通りに行かないと、不平不満を感じるのは当然のことです。
また、自分の感性で喜びを感じると、それを分かち合いたいと思うのは自然な感覚です。
問われるのは、期待通りに行かないときにどう行動するかです。
ここで、不満を相手にぶつけてしまうとどうなるでしょうか?
不満を感じることは自分の自由な感情表現の権利ですから自然なことです。
逆にそれを抑えようとすると不自然なことをしているので悪影響が出ます。
いわゆる感情の抑圧です。
しかし、不満を相手にぶつけることは「境界線越え」です。
ここの行動をやるかやらないかが大きく違ってきます。
境界線が引けている人
きちんと境界線が引けている人は、不満を相手にぶつけず、しかし、反対に不満を我慢するのではなく、自分のニーズをきちんと伝えることができる人です。
相手を攻撃せずに自分のニーズをうまく表現できる人です。
このとき、単純に自分のニーズを伝えようとしてもなかなかうまく行かないケースは多いです。
ニーズを言うつもりが結局文句になっているんですね。
それだと攻撃ですね。完全に境界線越えです。
攻撃されたらどうなるか
人は攻撃されたらどう反応するでしょうか。
自然な反応として、自分を守ろうとしますよね。
自分を守るための反応は人それぞれです。
攻撃し返したり、反論したり、正当化したり、論点を変えたり、黙ったり、逃げたりなどいろいろあります。
攻撃されてうれしい人は少ないと思いますので、境界線越えをしてしまうと人間関係がうまく行かなくなるだけです。
愛から来る境界線越えは?
攻撃ではなく、それが愛から来る好意的な行為だとしても、受け取る人がその行為を望んでいるかどうかは別問題です。
愛から言われる言葉であっても、聞きたくないことかもしれませんし、逆効果になることがあります。
多様性を認めるために大切なこと
人々の多様性を認めていく上で、人々のさまざまな感性を認めていくことはとても大切なことです。
そのために欠かせないことは、人々が境界線を引けていることだと私は思っています。
心理的安全性が確保されていることが必須
自分の感性を表現しても、それが攻撃されない安全な場である(心理的安全性が確保されている)ことが必須だと思います。
そうでなければ、よっぽど強いか、鈍いか、気にしない人でなければ、自分の感性を自由に表現できないでしょう。
そのためにも、ネガティブな感情を感じることと、それを相手にぶつけることの区別ができていなければなりません。
怒りと責めの区別ができることが大切
もう一度書きますが、ネガティブな感情を感じることは自然なことです。
しかし、それを相手にぶつける行為は決して自然なことではなく、ルール違反の行為であることをきちんと理解しておくことが大切だと思います。
相手が自分の期待に応えてくれなかったからといって、相手を責めていいわけではありません。
ガッカリしたり、怒ることは問題ありません。
しかし、怒って責めることは境界線越えです。
「怒り」と「責めること」の区別ができていることが大切ですね。
これができていれば境界線がかなり引きやすくなるのではないかと思います。