気づかいができない人にどう対処すればよいのか
他人のことをとても気づかう人たちがいます。
思いやりがあって情に深い人たちです。
もしくは、恐れが強くて、他人の意向を気にしている人たちです。
他人への気づかいが行き過ぎると、自分の本心よりも他人の都合ばかりを優先してしまい、不都合が生じますが、気づかいができることそのものは人として大切なことです。
精神的に大人の人ほど、他者に対する気づかいができます。
一般的に子どもは、自分のことしか考えられません。
もちろん、他者のことも考えますが、自分の都合に関わるために他者のことを気づかいます。
しかし、大人は自分の都合とは関係なく、場合によっては自分が不都合になることでも、他者を気づかうことができます。
もし、周りが全員、他者を気づかうことができる人たちばかりなら、気づかいがうまく作用します。
ところが、他者を気づかうことができない人がいると、気づかいが一方通行になり、感謝もされず、負担が増えるということになります。
気づかいした分、損をすることになるでしょう。
かといって、今度は極端に、自分が他者をまったく気づかわない人になってしまうと、社会がどんどん「子ども化」してしまいます。
「未成熟社会」への退化になります。
この記事は、気づかいができる人が、気づかいができない人に対してどのような対処をすればよいのかということを書いていきます。
対処が難しい理由
気づかいができない人に対して、簡単に関わらないようにできればよいのですが、どうしても関わらざるを得ない場合もあります。
そういった場合に、気づかいができない人に対してどう対処すればよいのかという私が考える結論は、その人が「気づかいできない状況であること」を見抜き、必要なことを適切に伝えることが重要だと考えています。
しかし、これは実際には簡単なことではありません。
これが難しい理由の一つが、必要なことを伝えても、相手に伝わらないということです。
気づかいができる人は、きちんと伝えると理解してくれて今度は気づかってくれるようになります。
しかし、気づかいができない人は、伝えてもなかなか理解してくれず、伝わらないのです。
なぜ、伝わりにくいかの理由はいくつかありますが、一つ大きな理由があります。
それは、伝える側が伝えるときに「感情」が乗っているから伝わらないのです。
感情が乗ってしまう理由
感情が乗るのは当たり前のことです。
なぜなら、気づかいができる人は、それまで根気強く対応していて、かなり「我慢」をしているからです。
ある意味、限界になって伝えるわけですから、その「我慢」した分、怒りのエネルギーが乗ってしまいます。
仮に言い方を丁寧にしたとしても、批判的なエネルギーが乗ってくるのです。
批判されると自己正当化するのが自然
人は、批判されると自分を正当化したくなるものです。
そのため、相手の言い分について、とっさに「違う」と反論してしまいます。聞く耳を持たなくなります。
そのため、「伝えても伝わらない」ということになります。
伝える側としては「分かってもらえない」という気持ちも強くなります。
感情抜きで伝えるには
では、どうすればよいのでしょうか?
感情を解放して伝えるということも一つの方法ですが、いちいち解放して伝えるのは大変です。
なるべく冷静に必要なことを伝えるためには、自分が大人の視点を持って、物事を客観的に見ることが必要です。
「他者を気づかうことができない人」への理解を持ち、ただそういう人として、扱うことができれば感情的にならずに済みます。
たとえば、幼稚園児が「他者を気づかえない」からといって、感情的になるかというと、よほどのことがない限りそうならないと思います。
「仕方ない」として受け止めているから、感情的になりません。
しかし、これが大人であればどうでしょう?
「大人であれば他者を気づかうのは当たり前」という価値観であれば、当たり前のことができない人に対して怒るのは自然なことです。
他者を気づかうことができない人を理解する
では、「他者を気づかうことができない人」を理解するために、大ざっぱな知識をお伝えしておきます。
他者を気づかうことができない人は、「性質的な原因」「養育環境的な原因」「危機にあること」の理由があります。
「性質的な原因」は、性格や資質といった点で、生まれ持った性質です。子どもは心が未発達なので全般的に他者に気づかいができませんが、それでも個人差が大きくあり、小さな子どもでも気づかい上手な子もいます。
「養育環境的な原因」は、たとえば、過保護で育って、「精神的な大人の部分」が未発達に育ったケースや、幼少期の心の傷が多く、「精神的な子どもの部分」がうずいて、今に影響を大きく及ぼしているケースです。
この場合、「自分のことしか考えられない」子どもの部分が目立って出てきます。
「危機にあること」ですが、自分が水におぼれているときに他者のことを考える余裕はありません。
たとえば、仕事が忙しすぎるとか、衣食住を失う危機にあるとか、愛する人と別れてしまったとか、仕事を失いそうとか、そういうときは、自分が危機にあるため、どうしても「自分中心」にならざるをえません。
ちなみに、「知性」と「気づかいできること」は関係ありません。
超絶に頭がいい人は、一般的な人の理解力が分かっていないため、抽象的かつ難解な表現になって、一般の人にとっては何を言っているのか分からないということがよくあります。
頭がよくて気づかいできる人もいれば、頭がよいけれどまったく気づかいできない人もいます。
本人の努力不足ではないことも多い
これらの3つを見ていくと、ある意味、本人の努力の範囲外のことが多いのが分かるでしょう。
「本人の努力不足」ではなく、ある程度仕方ないものとして見てあげることが大切です。
本人がやるべきことをさせることが必要
もちろん、それは、だからといって本人がやるべきことをやらないことを許すことではありません。
本人が気づかいができないからこそ、適切に「本人にやらせる」ことが必要です。
「伝える力」を養う
そのためには、どうしてそれをやらないといけないかを本人に分かる形で伝えることが重要になります。
本人に分かる言葉で、本人の立場に立ってあげて、本人のメリットやデメリットになることを教えてあげることができれば、聞こうとするわけですね。
ただし、相手をコントロールしようとすると、反発しますので、あくまで相手の自由意志を尊重することが必要です。
子どもと大人は対処が違うのでご注意を。子どもは大人がコントロールすることが必要なことがしばしばあります。
他人を気づかえるのは当然という思い込みを外そう
自分が気づかいができる人の場合、自分の尺度で物事を判断するため、「大人であれば他者を気づかえるのが当然だ」と思います。
自分ができることを他人がやっていないとき、その人が「悪い」と思ってしまいます。
そうなると、「気づかえない」のは本人の怠惰や悪癖だと思い、怒りが出てきます。
世の中には「気づかえない人もたくさんいる」ことを理解することが重要です。
そして、普段は気づかうことができる人でも、自分がしんどいときは気づかうことができません。
今はコロナ禍で、経済的にも精神的にも大変な人が増えています。
他人を気づかう余裕がない人も多いでしょう。
また、全般的に気づかいができる人であっても、すべてにおいて気づかいすることはできません。自分の体験外のことは気づかえないのが当たり前です。
たとえば、男性は女性特有のことには気づかえず、逆も然りです。
適切に教えてもらえれば、気づかえるようになります。
最後にもう一度、結論を述べますが、その人が「気づかいできない状況であること」を見抜き、必要なことを適切に伝えることが重要です。