ボクは「禅」の教えに興味を持っています。
禅の教えとは何でしょうか?
難しい言葉で言えば、「非二元」です。非二元については、下記の記事を参考ください。
簡単に言えば、「価値観から抜け出すこと」です。
エゴの行動原理は、損得です。自分にとってメリットのあることはやる。メリットのないこと、デメリットになることはやりたくありません。
何がメリットか、デメリットかは人によって違います。その人の価値観によって違います。
価値観は千差万別なので、人が何をメリットに感じるかは異なります。
禅は「非二元=つまり、物をあるがままに見られる境地、悟り、覚醒、目覚め」を目指します。釈迦が達した境地になることが目的です。
そして、悟りを開くための修行をやります。瞑想をやります。また、掃除や料理の支度などの雑用もたくさんやらされます。
ここで陥る罠が、瞑想は悟りを開くために欠かせないものであるから価値があって、雑用はやらざるを得ないつまらないものという判断です。
価値観から抜け出したいのに、自分の価値観にとらわれてしまっているという罠です。
そもそも、価値が等価だとすれば、瞑想も雑用も等価のはずです。
それを、瞑想は価値あるもの。雑用はできれば避けたい無駄なものとジャッジしているのです。
そうすると、雑用はつまらないものになります。だって無駄だから。
でも、この雑用をジャッジすることなく淡々とこなすことができたとき、この雑用が価値観脱出のためのキーとなるのです。
禅の修行だけじゃなく、ボクたちの生活も同じですね。仕事はお金が稼げるから価値がある。家事はお金が稼げないから価値がない。そう考えがちです。
収入の多い仕事は価値がある。収入の少ない仕事は価値がない。そうも考えます。
禅の教えの本質は、物事をただ淡々とやること、ボクはそう解釈しています。
今起こっていること、やるべきことを行為に飲み込まれることなく、ただ淡々とやる。
損得でなく、損得を超えて、ただ淡々とやる。
禅の修行で言えば、瞑想も、雑用も、ただ行う。それが鍵なんです。
日常生活も同じです。瞑想をやっているからすごい、価値がある…それは全然違うんです。
すべての行為に淡々と取り組むとき、本当の意味ですべての行為が瞑想になりうるんですね。