成田悠輔さんの「日本経済がここ30年間成長していない原因」についての言及
イェール大学助教授で経済学者の成田悠輔さんがABEMAテレビで日本経済が成長していないことの原因についてこう述べていました。
動画23分~24分30秒の部分。上記の動画はその部分から始まるように設定しています。
(日本経済が成長していない原因は)よく分からないですね
いろんな原因の可能性があって、いろんな原因が組み合わさっているんじゃないかと勝手に予想しています。…(中略)…多分、いろんな要因が組み合わさって、とても複雑なことが起きているんだと思うんですよ。そういう複雑なことが起きているときに、何の根拠も論理もなしに何かが特定の原因だ、その原因さえ摘めば問題が解決しますって断言するのはただの情弱ビジネス以上でも以下でもない…
専門家の対立構造こそ、経済が複雑である証拠
専門家である成田さんがあえて「よく分からない」と述べたのは、半分は「〇〇が原因です」と原因一因説を唱える人たちへのアンチテーゼで述べているように感じ、半分は本当に成田さんでも分からないんじゃないのかなと私は思いました。
私は経済について若いころに勉強しました(大学院の修士課程で金融理論と共に経済全般を学びました)。
20年以上前の当時から「日本が今後どうやって経済成長したらよいのか」についてはたくさんの意見や理論があり、面白いことに、専門の経済学者の人たちでも意見が割れていて、特に民間の経済専門家(エコノミスト)の意見は様々でした。
専門家の意見がバラバラになる・対立するということそのものが、経済というのは複雑であるということの証明になっているように思えます。
それを単純化して、「〇〇すれば経済は成長できる」とか、「〇〇を止めている政府や財務省が悪い」とか、単純白黒思考に陥ってしまうと物事の本質を捉えられなくなってしまうと思います。
単純原因説の人ほど境界線越えが激しい
あと、思うのが、単純原因説を唱えている人たちは、攻撃的な傾向が強いと感じます。
「正しい、間違っている」という主張で、意見が反する人に対して、境界線を越えがちです。
「誰々が悪い」とか「これを分かっていない奴はバカだ」というような対立的なエネルギーがあるんですよね。
心はもっと分からないもの
この記事で経済の話をしたかったわけではなく、成田悠輔さんの「よく分からないですね」に感銘を受けて、これを採りあげたいと思って書きました。
経済専門家で「よく分からないですね」と言った人を私は聞いたことがありません。
この答え自体が、成田さんの成熟した思考と誠実さを表していると感じました。
ここからは心の話に切り替えていきますが、日本の過去30年間の経済低迷が「分からない」のであれば、心の問題はもっと分からなくて当然のことだと思います。
心はデータが取りにくい
経済はまだ心よりは断然データが取れるんです。
データが取れれば、統計的(数学的)なアプローチが取れるので、科学的、合理的な結論が導き出せやすいです。
但し、経済では完全なデータが取れるわけではないため、データが取りにくい分野では、専門家でもコンセンサスを得られるような理論を作るのが難しく、仮説の対立余地があります。
心の場合、データが取れる分野が限られるため、科学的、合理的な結論が導き出せることが、心全体のごく一部に過ぎません。
心そのものを全体でとらえていくような理論というのは難しいです。
心の分野は情弱ビジネスが起きやすい
心の分野では仮説の対立余地が経済以上に大きく、それだけ、たくさんの考え方や仮説、理論が出ます。
成田さんが「情弱ビジネス」と言いましたが、心の分野は経済よりも「情弱ビジネス」が起きやすい土壌があります。
心の分野は科学的、合理的になりにくい分野なので、いくら非科学的、非合理的な主張をしても、それが許されやすいのです。
それが科学的、合理的に間違っているという証拠を出せないからです。
「心の不調を取り除くには〇〇をすればよい」「メンタルを強くするには〇〇をすればよい」というような説を作って、そこに納得感が出せるストーリーを作り上げれば、それが仮に間違っていたとしても大きな力を持ってしまいます。
ここに危うさを感じます。
受け取る側の姿勢が重要
であれば、受け取る側の姿勢が大切になってくると思います。
そもそも心は複雑で、個人間の違いが大きく、またデータが取りにくいため、科学的な研究がしにくく、「分からない」ということが大前提にあります。
これを大前提として知っておくことが大切だと思います。
私自身も心のことを勉強し、自分の心を見つめ、カウンセリングで心のサポートをしていますが、「分かったつもり」になることはあっても、「分かる」ということは一生ないと思います。
もちろん、学ぶほど、経験を積むほど理解は深まっていきますが、「分からない」というのが前提にあります。
だからこそ「もっと知りたい、分かりたい」という欲求で学んでいます。
私自身もそうでしたが、中途半端に学んでいる段階ほど「分かったつもり」になって、一つの理論でバッサリ切るというのをやってしまっていたなぁと振り返って思います。
科学・合理とそれ以外の区別の大切さ
あとは、科学的、合理的なアプローチが取れる分野とそうでない分野をきちんと区別して、対応することが重要だと思います。
実は科学・合理主義の人は、単純原因説の人と同じ構造です。
科学・合理を持って、善悪の判断をし、善悪対立しています。
科学的、合理的なアプローチが取れる分野では、科学的、合理的なアプローチを採用することが重要です。
このような分野で非科学的、非合理的なアプローチをしていくとうまくいきません。
しかし、科学的、合理的なアプローチが取りにくい分野では、科学・合理主義では、間違いに陥りやすくなります。
このような分野では非科学的、非合理的なアプローチも採用せざるを得ません。
心の分野の科学的、合理的なアプローチは現段階では、「薬」「化学物質」になりますが、それだけだと不十分だと私は思います。
ストレスを抱えているのであれば、そのストレスを特定し、解消のための方法を取らないと問題解決にはならないと思います。
心の分野は、非科学的、非合理的なアプローチも必要になると思います。
だからこそ、その弊害も知っておく必要があると思うのです。
「ある特定の理論やセラピーや方法で問題を解消する」というのが土壌的に起こりやすく、現にそういったものがたくさんあるわけです。
それらの方法を学ぶことは大切ですが、万能感や優劣、固執に陥ってしまうと、有効ではないことまで採用して、余計悪化させることも起こるわけです。
かといって、極端に「科学・合理」に振れても、本質を見失いかねません。
ここに関しても区別(境界線)が引けているとよいなと思います。
単純化したいという欲求を否定しない
人間は様々な欲求がありますが、「単純化したい」「原因を知りたい」「分かりやすさを求める」という欲求があります。
そのため、原因を単純にした分かりやすい理論が必然的に生じやすいです。それを人々が求めているわけですから。
それをそういうものだと受け止めたとき、それらを「悪い」と考えず、自分なりに対処していけばよいのではないかと思います。
つまり、「心というものは複雑で、そもそも分からないものだ」ということを知っておいた上で、心を学んでいこうとすることが重要だと思います。
この前提があれば、白黒対立になりにくく、心の問題解消にプラスになっていくと思います。
そして、境界線という意味でも、多様な考え方・価値観の受容、つまり、境界線(他者)の尊重につながっていくのではないでしょうか。
まったく仰る通りだと思います
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